先日、運転免許の更新に行ってきました。久しぶりの免許センター。
平日だというのに人は多く、入口からして行列。ここでは、日々たくさんの人が同じ手続きをしているのでしょう。案内の導線もとても効率的にできていて、まるで工場のように「あちらへ」「こちらへ」と流れていきます。
私はというと、「はい、次の方」「こちらにどうぞ」と、矢印に従い、番号に呼ばれ、写真を撮られ、講習を受け、無事に新しい免許証を受け取って帰ってきました。
手続きはスムーズ。何も問題はありません。なのに、なぜか虚しいというか、寂しい気持ちになってしまいました。
「心を殺して」働いているように見えた人たち
というのも、窓口にいた職員の方々の言葉や態度が、まるで機械のように感じたからです。
「◯番にお進みください」「免許証を出してください」「そちらのイスでお待ちください」
マニュアルに沿った言葉に、マニュアルに沿った口調。笑顔もなく、抑揚もなく、ひたすらに、同じ言葉を何百回と繰り返しているようでした。
もちろん、それがその人の“本当の人柄”だとは思ってはいません。むしろ、毎日毎日、次から次へとやってくる人を淡々とさばいていかなければならない現場で、いちいち心を込めていたら身がもたないのかもしれない、と想像しました。
そうして“心を殺して”仕事をしているように見えてしまったその姿に、私はなんだか切ない気持ちになったのです。
これこそAIが担ってもいい仕事なのかもしれない
こういう仕事こそ、AIとかアンドロイドで代替できたらいいんじゃないかと思ってしまいました。手続きそのものはルールに沿って流れ作業でできるし、そこには“心”というよりも、丁寧さや問題が起きた時のクレーム対応を迅速にできることのほいが求められるように思うのです。思いやりや、心づかいの“ように”感じさせることができれば、それはそれで十分なのかもしれません。クレーム対応をAIに任せようというのも、私はアリだと思います。人を傷つけることでストレスを解消しようとする悪意に対して、心を人質に取られているようなことはおかしなことだと思います。
生身の人間に心を動かさずに仕事に徹してと言っても、それは無理な相談です。心を守るために、心ない無感情な対応をせざるを得ないのは苦しいことでしょう。
AIやロボットがすべてを奪う時代が来るのが怖い、という声もよく聞きます。しかし人の“心”を押し殺さなければやっていけないような仕事なら、むしろ機械にやってもらったほうがいいのかもしれない。おそらく心を奪ったものは業務の効率化。そしてそれ以上に彼らの気づかいや思いやりが無視されたり、おざなりにされたりしたことによる疲弊感なのではないでしょうか。人が人に向けるちょっとした悪意。それが少々でも、日常的に多く積み上がれば大きな悪意になるでしょう。
免許センターで、機械的に書類をさばいていた職員さんをロボットのようにしてしまったのは、受け手である免許証を更新に来た私たちにあるのではないかと思ってしまうのです。人間にしかできない「心を使う仕事」「心を届ける仕事」は、一方通行では成り立ちません。人が人と対峙する時、お互いが相手を思いやることで生まれる感謝がなければ、気持ちの良い関係は築けないなと確認させられるような出来事でした。
誕生月の低空飛行。変化の波に乗って、生きてますよ。
こんにちは、自分を知りたい・変わりたい方に向けて「楽園志向」を指南するアリカ塾を主宰している、語り部の星野つゆ子です。
ゴールデンウィークも過ぎて、平日なのか休日なのかわからない感覚のまま日々が進んでおりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私も帰省したり、母のいる施設に会いに行ったり、兄弟とお寿司をつまんでおしゃべりしたりと、ちょっと「休日らしい休日」を過ごしていました。
身体の不調と医療との付き合い方
ところがその直後、謎の腹痛で一晩中うんうん唸り、挙句の果てには急な悪寒からの高熱。いやもう、子どもかっていうくらいガタガタ震えて、布団の中で「これはくるぞ…」ってやつでした。
けれど救急車を呼ぶかというと、まぁ、呼ばないんですよね。痛み止めくらいしか打てないって、わかってるから。しかも私、病歴も薬歴もけっこう複雑で、いちいち説明するのがもうしんどい。
もちろん、こんな自己判断は全然おすすめしません。私はたまたま医療の知識があって、主治医とも長年の信頼関係があるからできてるだけ。でも、こういうとき思うんですよね。
「原因がわからない不調」にどこまで突っ込むべきか。検査も治療もやりすぎれば別のリスクが出る。その微妙なさじ加減って、本当に難しい。
変化の折り返し地点に立つとき
そんなわけで体調は低空飛行。だけど、この状態って、何かの「変わり目」なんじゃないかなってふと思いました。波って、上がる時よりも、上がる前とか下がる前の「折り返し」の時が一番しんどい。
人生の中でもそういう瞬間ってありますよね。変化の入口って、ざわつくし、不安だし、落ち着かない。でも、そのざわつきに「今、変わろうとしてるんだな」と気づけたら、少しラクになるかもしれません。
ちゃんと見なきゃいけない時と、見すぎない方がいい時。人生には、両方あるんだと思います。
すべてを明確にしようとすればするほど、不安や恐怖もリアルに迫ってくるから。だから私は「これは仮説」「今は流していい」と、自分の中で整理するようにしています。
誕生月は心の棚卸し
実は、今月は私の誕生日月でもあります。50を過ぎると別に嬉しくもないけれど、やっぱりくるんですよね、この「1年分の棚卸し」感。
なんだか心身の底から、いろんな感情や思考が浮かび上がってきて、「ああ、今、整理しろってことなのかもな」と。
誕生月ってそういう作用がある気がします。見ないふりしてたこと、流してきたこと。そういうものが顔を出す。
見えなかったものが見えてきたり、聞こえなかった声が聞こえてきたり。私にとっては、それが「生きてる証」なんでしょうね。
ということで、今日は「とりあえず、生きてますよ」というご報告でした。
体調はぐずぐずですが、こんなふうに言葉を綴ることで、自分がちゃんとまだここにいるって確認してる気がします。
みなさんも、もし誕生月が近い方がいらしたら、ちょっと自分の心と身体に目を向けてみてくださいね。
見えてくるものがあるかもしれません。
私は文章を書くときに、いつも気にかけていることがあります。
それは、「読みやすさ」。
パソコンで文章を打ち込むとき、
変換キーを押せば、いろんな漢字がぱっと出てきますよね。
普段、話し言葉ではよく使うけれど、
漢字にしてしまうと急に読みづらくなる言葉も、意外と多いものです。
これは、変換ありきで文章を打っていると、
つい見逃しがちなことだなぁと、最近改めて感じることがありました。
たとえば、「お咎め」。
(おとがめ)と読むこの言葉、
先日、あるブログで漢字表記で出てきたのですが、
私はふと立ち止まってしまいました。
「これ、なんて読むんだっけ?」
すぐに調べて「ああ、そうだった」と思い出したのですが、
そこそこ本を読む私でも、迷ってしまう瞬間があるんだなぁと、苦笑い。
もちろん、これは私の知識不足と言われれば、それまでです。
でも、人に読んでもらうための文章であるならば、
「一瞬でもつまずかせない工夫」は、とても大事なことだと思います。
もし私なら、
きっと「お咎め」とは書かずに、
ひらがなで「おとがめ」と表記するでしょうね。
私が良く使う「拘り(こだわり)」なんかも、そうですね。
漢字で書いた方が意味が引き締まる場面もあれば、
逆に、読み飛ばされたり、硬く感じられたりすることもある。
文語と口語。
文字と声。
その違いを意識しながら、どちらがふさわしいかを、
その都度、選んで表現したいと思います。
文章は、誰かに届けるものです。
「わかりやすさ」や「読みやすさ」は、
書き手から読み手への、思いやりだと、私は思うのです。
読みにくさも、もちろん時には表現の一部になり得ます。
でも、それは意図して選ぶものであって、無意識に押し付けるものではないと思います。
最近はAIを使用して文章を書かれる方も多いでしょう。
それが悪いことだとは思いません。
文章を整理したり、まとめたり、AIにサポートしてもらうことで新しい切り口の表現が生まれることもあると思うからです。
ただこの読みやすさや、自分らしい語り口になっているかは、最後ちゃんと出来上がった文章を読んで、手直しすることは大切ではないでしょうか。
自分が発信する内容が、自分らしくなかったら上手く書けていても、面白くはないと思うし、読み手にはそれがちゃんと感じられるものです。
読みやすさは思いやりですし、自分らしさは自分へのリスペクトです。
文章を書くうえで、私はこれらを忘れないようにしていきたいと思います。
最近個人経営のお店がどんどん閉まっていて
チェーン店ばかりになっている中で
新しくオープンしたお気に入りのお店。
夫と何度かランチどきにうかがって、
オープンキッチンだし
お値段もお手頃で
セットに私の大好きな茶碗蒸しがついているのも
お気に入りポイント。
でも、先日。SNSで見かけたある投稿に、
心がざわついてしまいました。
それは、某お笑い芸人出身の著名人
(仮に「N氏」とします)のアカウント。
彼が手がけた作品「●●ル」(※伏字)
のチケットを50枚購入すると、
本人が直接お礼に伺うというキャンペーンをしていて、
そのお店が、まさにそれに参加していたのです。
店主さんとスタッフらしき人たちが、
満面の笑みでN氏と一緒に並んでいる写真。
それを見た瞬間、
胸の奥に、もやもやとした感情が広がってしまいました。
正直に言うと、
私はN氏のビジネスのやり方に、
かねてから違和感を抱いていました。
「応援」や「夢」を看板に掲げながら、
その裏で、
「これって本当に必要なことなんだろうか」
「誰かの無理な善意を、利用していないだろうか」
そんなふうに感じる場面が、
何度もあったからです。
そして『●●ル』という作品についても、
個人的には、あまり心に響かなかったというのが
本当のところだったりして。
そんな背景があったからこそ、
お気に入りのお店が、
その世界観に嬉々として加わっている姿を見るのは、
思った以上にこたえるものがありました。
まるで、
大好きだった友人が、
自分とは相容れない何かに心酔してしまったのを
知ったときのような。
そんな、勝手な寂しさ。
冷静に考えれば
お店の味にも、
値段にも、何も関係ない。
もちろん店主さんにも、
自由に応援する権利がある。
それでも、
心は理屈通りにはいかないものです。
好きだったからこそ、
勝手に裏切られたような気持ちになってしまいました。
「好き」と「信じる」は、似て非なるもの。
似ているからこそ
心が勝手に勘違いを起こしてしまったのかもしれません。
誰かを、何かを、好きになった瞬間に、
無意識に
「この人は、私と同じ、もしくは似た価値観だろう」
と自分なりの信頼を重ねてしまう。
それが、違う方向を向いていると知ったとき、
自分でも驚くほど、心は脆くなってしまう。
つまらない、
小さなことと言えなくもない。
気にしなくてもいいし
わざわざネガティブな気持ちで
不愉快にならなくてもいいもかもしれません。
しかし、私は小さな違和感を、
「たいしたことない」とごまかしたくないのです。
心に生まれたモヤモヤを、なかったことにしたくない。
なぜなら、
このネガかもしれないこのモヤモヤが
私自身が何を大切にしているのか、
何に違和感を覚えるのか、
どんな価値観を選んで行きたいのか
その“本音”を教えてくれる、
かけがえのないサインなのかもしれないと思うからです。
好きだったものにがっかりするのは、悲しいことです。
でも、悲しさを感じられるのは、
素直に自分の感情を感じている証拠ですし
それが自分の心に誠実に生きようとしている証なのではないかとも思うのです。
心が「違う」と感じる時、
私は、ちゃんとそれを受け止める。
なぜなら、
自分の心に嘘をつき
大袈裟かもしれませんが裏切るようなことに慣れてしまったら、
いつか、大切なものを見失ってしまうかもしれないと思うから。
小さな違和感やモヤモヤを無視せず、
「これは違う」と思った自分をちゃんと見つめる。
これも自分軸を確認する作業だったりしなやかに、
生きるのに必要なことかもしれません。
鴨南蛮そばが好きです。温かいおつゆに噛むたびにじゅわっと鴨のあぶらの旨味が広がってそこに葱の香ばしさが合わさって。最後に蕎麦の香りがふわっと追いかけてくる感じが、たまらないなぁと毎回しみじみ思う。
そんな鴨そばを出すお店が、最寄り駅の近くにあるのを知ったのは、つい最近のこと。「いつか夫を誘っていってみよう」と思っていたお店です。SNSもやっていて、店主さんが蕎麦へのこだわりや産地の話を投稿していて、それも好感を持って眺めていたんです。
ところが、ある日目にした投稿に、ふと心が引っかかってしまいました。
「当店では、お水にもこだわっています。“水素水”をお出ししております」
……水素水。
ああ、そっちか、と。
「水素水」と聞いた途端、心が遠のいてしまいました。好きな人には申し訳ないんですけど、どうにもその言葉には「ん?」と思ってしまうのです。
もちろん、水にこだわること自体は理解できます。料理に使う水は、素材の味を引き立てる大切な要素ですから。でも、「水素水」というワードになると、怪しさの方が先んじてしまいます。だって、水素ですよ。水素分子はとても小さくて、まぁ水素が溶け込んだ水を缶とかペットボトルに詰めたとしても飲む頃には全部飛んじゃってますよ。水素水ってただの水を飲んでいるのと変わりませんからね。
興味のある方は、現役の科学者の方々がわかりやすく解説している動画もあります。
少し怪しげなビジュアルで始まりますが、中身はとても信頼できる内容です。こちらからご覧いただけます。
視聴者の期待に応えて、水素水をブッ叩く!!!!
私が躊躇するのは、そのお店が信じていることへの違和感というより、「わたしがこの店に感じていた“確かさ”みたいなものは、少し幻想だったのかな?」と寂しくなってしまう、そのズレの方なんです。
ああ、もったいないなぁ。鴨そば、おいしいんだろうなぁ。でも今の私は、その湯気の向こう側にうっすらと「水素水」が浮かんで見えてしまって、なんとなく足が向かなくなってしまう。
これはもう好みの問題なんでしょう。信じているものが違うと、少しだけ距離が生まれるのは、食べ物に限らず、どんなことでもあるものですから。
皆さん、体調がすぐれない時、そこから回復するのにいろいろ手段を講じるかと思いますが、私の場合「寝るか?食べるか?」の二択なんですよね。
生命維持に必要なこの二つ。
それでもギリギリの時、どちらを選ぶかといえば、私は「寝ること」を選びます。
貧乏看護学生だった時、食べるものがなかったのでお腹が空いたら東京水道水を飲んで、お腹を膨らませて寝ていたこともあるくらい、寝ないと活動できませんでした。それは今も変わらず、体調のすぐれない時は1日の半分寝ていることもあります。こんなに寝てばかりいると「なんて怠け者なんだ」と自分を責めてしまうこともありましたが、実際寝ずに無理して起きていたとしても、起きている時もパフォーマンスはあまり良いものではありません。結局起きていていいことがないなら、寝て少しでも体の調子を上げたほうがいいことに気づきました。
行動は間違いなく怠け者に見えることでも、私にとっては必要なことだということです。
歳をとったこともあるかもしれませんが、自分にちょうどいいことの方が、周りにどう思われるかで判断することよりも大切なことになってきているようです。
最近送り迎えの時、人が少ないなぁなんて思っていたら、学生さんは春休みなんですね。
夫は定年退職して、私も家仕事なのでもう曜日感覚とか月日感覚がどんどん退化しております。
そういえば数日前に胸にコサージュつけた学生さんが歩いてたな。あれは卒業式に違いない。と、今日は卒業式の思い出についてのお話。
最近といってももう数年前になりますが、息子が大学を卒業してしまって、そういうものからは縁遠くなってしまいました。私の中では子供の保護者としての現役は高校卒業までと決めていたので、大学の入学式も卒業式も息子だけの出席でした。最近の大学は親に成績も送られてくるし、個人面談のようなものも希望すればやってくれるようで、お知らせが来た時は驚きました。なんとも手厚いというか、なんというか。過保護すぎる気がするのは、私だけでしょうか?
自分の卒業式の思い出といえば、式の途中に流れる音楽です。特に覚えているのは中学の卒業証書授与の時に流れていたエルガーの威風堂々です。場の雰囲気にとても合っていて、タイトルからもこの音楽を選んだ先生の気持ちが感じられて、感動したのを覚えています。思い出と音楽は、セットで記憶に残っていて、その時の音楽を聴くとあの時の気持ちも思い出されるようで、感動してしまいます。
庭のある一軒家に住んでいると、庭やら家やらのお手入れをしなければならないのですが、私はこの庭木のお世話がとても苦手です。
根が真面目なので、最初はちゃんとやろうと色々調べたり、人に聞いたりしてやってはみたものの、まぁ根っこのあるものはどんどん元気がなくなっていって枯れたり腐ったりしてしまいます・・・
草木を育てるのがとてもうまい友人がいるのですが、そういう人を「緑の手の持ち主」だと聞いたことがありますが、私は真逆ですね。自分の発するエネルギーが強過ぎるんだか、植物には合わないんだかわかりませんが、とにかく全くお世話にならないので、数年前に自分でやるのは諦めて、植木屋さんにお任せすることにしました。
普段はほったらかしの庭ですが、なぜかほったらかしにしても梅と柿だけは実をつけて、春にはふきのとうが勝手に生えてきます。
我が家の春は、このふきのとうがお知らせしてくれるようなもので、生えてくるとつんで天ぷらや蕗味噌にして春を味わいます。
最近は四季が曖昧になってきたように感じます。特に春と秋はあっという間に過ぎていってしまうようです。そんな短い季節を感じるのに、季節の味覚はありがたいものですね。
季節の移り変わりを感じる余裕も持ちながら、生活したいものです。
私は母子家庭育ちで、母が夜勤で家を開ける時は私が家事を引き受けていました。
最初の頃は私も小学生でしたので、母も食事を作って置いていってくれたりしていましたが、だんだん仕事も忙しくなり母も疲れていたのもあって、私が食事も作ることに。
下に兄弟もいたので、必要に迫られて家事をするようになったので、私はいまだに家事が苦手で、やらないで済むならやるたくないなぁと毎日思っています。
特に苦手というか苦痛なのが食事を作ることで、そもそもあまりセンスがいい方でもないので、美味しいものも作れません。息子たちにはよく
「お母さん、今日の〇〇、味がブレてるよ。。」
と言われる始末。
悲しい。
でもそれなりにやってはいるのですが、苦しさは変わらない。
そんな時、料理家の土井善晴先生のご本に
毎日美味しいものなんて作らなくていい
美味しいものなら外食で、お金を出せばいくらでも食べられる
毎日の食事は、美味しくなくていい
それなりの味であれば、毎日続けられるし、それが家庭の味なんだからそれでいい
みたいなことが書いてあって、救われたんですよ。
そっか、美味しくなくていいんだ。
毎日それなりで作ってる私、偉いよね、と。
どこかちゃんとやらなくちゃとか、美味しいものを食べさせなくちゃとか、なんだそれ、どこの誰理論??みたいなものに巻かれてしまっていましたよね。
日常は淡々と過ぎていくものだし、そうあるもの。
そんな力入れて、ちゃんとやらなきゃって、誰得なんだよって話です。
もっと肩の力抜いてねー、って必死だった以前の私に言ってあげたい。
赤字に白い十字とハートのマークの「ヘルプマーク」
つけている方が増えたような気がします。
私が気にしているからか、無意識にヘルプマークを目で追ってしまったりしています。
基本的な対象者は
義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、妊娠初期の方など、援助や配慮を必要としている方
らしいので、私も難病だし対象者ではあるので、つけたほうがもしもの時に周りの方のサポートが受けやすいのは重々わかってはいるのですが、どうしてもつけることに一歩踏み出せないでいます。
ずーっとどうしてつけたくないのかと自問自答しているのですが、
「もしかしたら迷惑をかけるかもしれません」
と言いふらしているように見えるからなのかなと思ったりしています。
それとヘルプマークをつけている人が自分は弱者なので、助けてもらうのは当然だという態度でいると思えるからなのかもしれません。決してそんなことはないと信じたいですが、電車など利用していると、「ヘルプマークが見えないのか!」なんて一般の人に粘着している人を見かけたりすることもあって、「あぁいう人とひとくくりにされたくない」と思うところもあります。
病気も障害も個性の一つだし、弱い立場の人を思いやることはやるに越したことはないと思います。でもどこかで、迷惑をかけたくないと思う気持ちもあって、なんだかすっきりしません。
これも私のただのこだわりでしかないので、つけてしまえばなんてことはないのかもしれません。でもあまり見せびらかしたくないんですよね。できればわからないままでいてほしい。そう思ってしまいます。