皆さん、体調がすぐれない時、そこから回復するのにいろいろ手段を講じるかと思いますが、私の場合「寝るか?食べるか?」の二択なんですよね。
生命維持に必要なこの二つ。
それでもギリギリの時、どちらを選ぶかといえば、私は「寝ること」を選びます。
貧乏看護学生だった時、食べるものがなかったのでお腹が空いたら東京水道水を飲んで、お腹を膨らませて寝ていたこともあるくらい、寝ないと活動できませんでした。それは今も変わらず、体調のすぐれない時は1日の半分寝ていることもあります。こんなに寝てばかりいると「なんて怠け者なんだ」と自分を責めてしまうこともありましたが、実際寝ずに無理して起きていたとしても、起きている時もパフォーマンスはあまり良いものではありません。結局起きていていいことがないなら、寝て少しでも体の調子を上げたほうがいいことに気づきました。
行動は間違いなく怠け者に見えることでも、私にとっては必要なことだということです。
歳をとったこともあるかもしれませんが、自分にちょうどいいことの方が、周りにどう思われるかで判断することよりも大切なことになってきているようです。
最近送り迎えの時、人が少ないなぁなんて思っていたら、学生さんは春休みなんですね。
夫は定年退職して、私も家仕事なのでもう曜日感覚とか月日感覚がどんどん退化しております。
そういえば数日前に胸にコサージュつけた学生さんが歩いてたな。あれは卒業式に違いない。と、今日は卒業式の思い出についてのお話。
最近といってももう数年前になりますが、息子が大学を卒業してしまって、そういうものからは縁遠くなってしまいました。私の中では子供の保護者としての現役は高校卒業までと決めていたので、大学の入学式も卒業式も息子だけの出席でした。最近の大学は親に成績も送られてくるし、個人面談のようなものも希望すればやってくれるようで、お知らせが来た時は驚きました。なんとも手厚いというか、なんというか。過保護すぎる気がするのは、私だけでしょうか?
自分の卒業式の思い出といえば、式の途中に流れる音楽です。特に覚えているのは中学の卒業証書授与の時に流れていたエルガーの威風堂々です。場の雰囲気にとても合っていて、タイトルからもこの音楽を選んだ先生の気持ちが感じられて、感動したのを覚えています。思い出と音楽は、セットで記憶に残っていて、その時の音楽を聴くとあの時の気持ちも思い出されるようで、感動してしまいます。
庭のある一軒家に住んでいると、庭やら家やらのお手入れをしなければならないのですが、私はこの庭木のお世話がとても苦手です。
根が真面目なので、最初はちゃんとやろうと色々調べたり、人に聞いたりしてやってはみたものの、まぁ根っこのあるものはどんどん元気がなくなっていって枯れたり腐ったりしてしまいます・・・
草木を育てるのがとてもうまい友人がいるのですが、そういう人を「緑の手の持ち主」だと聞いたことがありますが、私は真逆ですね。自分の発するエネルギーが強過ぎるんだか、植物には合わないんだかわかりませんが、とにかく全くお世話にならないので、数年前に自分でやるのは諦めて、植木屋さんにお任せすることにしました。
普段はほったらかしの庭ですが、なぜかほったらかしにしても梅と柿だけは実をつけて、春にはふきのとうが勝手に生えてきます。
我が家の春は、このふきのとうがお知らせしてくれるようなもので、生えてくるとつんで天ぷらや蕗味噌にして春を味わいます。
最近は四季が曖昧になってきたように感じます。特に春と秋はあっという間に過ぎていってしまうようです。そんな短い季節を感じるのに、季節の味覚はありがたいものですね。
季節の移り変わりを感じる余裕も持ちながら、生活したいものです。
私は母子家庭育ちで、母が夜勤で家を開ける時は私が家事を引き受けていました。
最初の頃は私も小学生でしたので、母も食事を作って置いていってくれたりしていましたが、だんだん仕事も忙しくなり母も疲れていたのもあって、私が食事も作ることに。
下に兄弟もいたので、必要に迫られて家事をするようになったので、私はいまだに家事が苦手で、やらないで済むならやるたくないなぁと毎日思っています。
特に苦手というか苦痛なのが食事を作ることで、そもそもあまりセンスがいい方でもないので、美味しいものも作れません。息子たちにはよく
「お母さん、今日の〇〇、味がブレてるよ。。」
と言われる始末。
悲しい。
でもそれなりにやってはいるのですが、苦しさは変わらない。
そんな時、料理家の土井善晴先生のご本に
毎日美味しいものなんて作らなくていい
美味しいものなら外食で、お金を出せばいくらでも食べられる
毎日の食事は、美味しくなくていい
それなりの味であれば、毎日続けられるし、それが家庭の味なんだからそれでいい
みたいなことが書いてあって、救われたんですよ。
そっか、美味しくなくていいんだ。
毎日それなりで作ってる私、偉いよね、と。
どこかちゃんとやらなくちゃとか、美味しいものを食べさせなくちゃとか、なんだそれ、どこの誰理論??みたいなものに巻かれてしまっていましたよね。
日常は淡々と過ぎていくものだし、そうあるもの。
そんな力入れて、ちゃんとやらなきゃって、誰得なんだよって話です。
もっと肩の力抜いてねー、って必死だった以前の私に言ってあげたい。
赤字に白い十字とハートのマークの「ヘルプマーク」
つけている方が増えたような気がします。
私が気にしているからか、無意識にヘルプマークを目で追ってしまったりしています。
基本的な対象者は
義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、妊娠初期の方など、援助や配慮を必要としている方
らしいので、私も難病だし対象者ではあるので、つけたほうがもしもの時に周りの方のサポートが受けやすいのは重々わかってはいるのですが、どうしてもつけることに一歩踏み出せないでいます。
ずーっとどうしてつけたくないのかと自問自答しているのですが、
「もしかしたら迷惑をかけるかもしれません」
と言いふらしているように見えるからなのかなと思ったりしています。
それとヘルプマークをつけている人が自分は弱者なので、助けてもらうのは当然だという態度でいると思えるからなのかもしれません。決してそんなことはないと信じたいですが、電車など利用していると、「ヘルプマークが見えないのか!」なんて一般の人に粘着している人を見かけたりすることもあって、「あぁいう人とひとくくりにされたくない」と思うところもあります。
病気も障害も個性の一つだし、弱い立場の人を思いやることはやるに越したことはないと思います。でもどこかで、迷惑をかけたくないと思う気持ちもあって、なんだかすっきりしません。
これも私のただのこだわりでしかないので、つけてしまえばなんてことはないのかもしれません。でもあまり見せびらかしたくないんですよね。できればわからないままでいてほしい。そう思ってしまいます。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、昨日は朝から雪でとても寒い1日でしたが、今日から暖かくなるようです。
温度差が花を咲かせますから、桜もあっという間に咲き始めるかもしれませんね。ちょっと楽しみです。
春分の日はお彼岸ですから、お墓参りに出かけられる方もいらっしゃるでしょう。
私も家族で出かけますが、わざわざお墓に足を向けるのも意味のないことではありません。
ご先祖のことを考えるのは、普段日常に埋没している私たちの気持ちをリセットするにはいいことかもしれません。自分自身のルーツですからね。私はなんで生まれたんだろう、何をするのだろうなんて普段考えないことも、考えてみるのも良いでしょう。
自分の心のためにお墓参りをするのも一つの考え方ですが、仏教的にはお墓でご先祖のことを思って手を合わせる行為は、あの世でまだまだ修行している亡くなった方たちを応援するためだとも言われています。
死んでもなお悟るために修行なのかい!という感じではありますが、応援するのも悪いことではありません。
手を合わせる時、そんなことも思い出してみてみてください。
先月 夫とブラブラと梅まつりに行ってきました
八王子から小田原って
結構近いんですね
日常にちょっとした非日常が入り込むのって不思議な感覚と共に ワクワクもあって
楽しいです
子供が巣立って
夫が退職して
これが自由ってやつでしょうか