在処塾修了生との幸せな再会
今日は、先日行った在処塾修了生とのお食事会のお話をさせていただきます。今年の8月で在処を設立してからちょうど8年が経ちます。これまでに約50人の方が在処塾を修了し、日々「楽園志向」で幸せに過ごしているはずです。
私は半年ほど体調を崩して発信を控えていましたが、5月30日の誕生日に修了生の皆さんに声をかけたところ、平日の真昼間にも関わらず7名の方が八王子まで集まってくださいました。私を含めて8名での楽しい洋食ランチとなりました。
久しぶりに皆さんと会うことができ、本当に嬉しかったです。コロナ禍の影響もあり、直接会う機会が減っていたので、顔を合わせておしゃべりできるのはやはり格別ですね。
在処塾は一般的な自己啓発セミナーとは違い、1対1で深く個人に向き合う形式です。受講者それぞれ完全オリジナルメニューを提供しており、深い自己探求を行っています。
この取り組みを通じて、皆さんが自分の内面に向き合い、整理することができるようになります。そして、その結果として、修了生の皆さんが自分の納得した答えをオープンに話せるようになるのです。自分の過去の黒歴史や、トラウマとしてかかえているものを人に話せるようになるほどですこれは単なる自己開示ではなく、自分の感情や過去の出来事をしっかりと理解し、整理し納得すること。正解か誤りかではなくその人にとっての「納得解」を見つけるプロセスです。
半年ほど自分に向き合った後、皆さんには必ず変化が訪れます。修了生たちが集まる場では、自分の納得を素直に話せるので、皆さん自然体で楽しい時間を過ごすことができます。
今回のお食事会では、洋食をいただきました。中には赤ちゃんがいる方もいらして、その方も夏に出産予定です。久しぶりに会えてとても嬉しかったです。お食事はオムライスやお魚料理を楽しみました。メニューを決める時も、皆さんそれぞれの好みを尊重しながら決断していて、その姿勢がとても素敵でした。
自分が何を食べたいかを選ぶことも、自分を知る一つの方法です。自分の感覚を大切にし、毎日の選択を心地よく過ごすことが、充実した人生につながるのだと改めて感じました。
皆さん、毎日を自分の感覚に従って選び取っていますか?
もし選べない状況があるなら、それを嫌だと言う勇気を持っていますか?
この繰り返しが、私たちの人生に変化をもたらします。
の感覚を信じて、流されずに生きていきましょう。
今回の再会で、皆さんが自分をしっかりと知り、自分の選択に自信を持っている姿を見て、私は本当に幸せな気持ちになりました。素敵な皆さんとの時間は、私にとって大切な宝物です。これからも皆さんが心地よく過ごせる選択をし続けてほしいと願っています。
在処塾
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4「思い変え」で自分の世界を創造する
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ここ数日、我が家のかわいいにゃんこ、ラグちゃんが食欲不振なんです。大好きなごはんを徐々に食べなくなり、最終的には完全に拒否。猫は痛みや不調を直接伝えることができないので、普段と違う様子に気づくのは飼い主しかいません。
実は、ちょうど1年前にも同じような症状が出たことがありました。ラグちゃんはふわふわの毛を持つラグドールなので、春には毛が抜けて夏毛に変わる時期。この時期は毛玉を吐きやすく、食欲不振に繋がることがあります。昨年も原因が特定できず、対処療法として点滴治療を行いました。その結果、10日ほどでラグちゃんは突然元気を取り戻し、再びごはんを食べ始めました。
今回も同様に、原因は不明でしたが、点滴治療をお願いしました。原因がわからないことに不安を抱く飼い主さんも多いですが、私は対処療法を選びました。ラグちゃんが苦しまないようにすることが一番大切だと感じたからです。
ペットの愛とこだわり
私はラグちゃんが苦しまずに生きていてほしいと願っています。ペットは家族の一員であり、大切な存在です。しかし、彼らにも彼らの命の使い方があります。原因不明の病気は人間にも多くあります。原因がわかることはラッキーなことであり、それがわからない場合は症状に対処するしかありません。
ラグちゃんの病気も同様で、私は飼い主として対処療法で一時的に楽にすることを選びました。私にとって大切なのはラグちゃんが心地よく過ごせることです。必要以上に検査をしてストレスを与えることは避けたいと思っています。原因を究明することにこだわりすぎると、ペットにも私たち飼い主にも苦しみが長引くことがあると、思うからです。
こだわりと諦めのバランス
私は自身の病気に対しても同じ考えを持っています。原因不明の病気がいくつもあり、それが絡み合って現在の体調があるので、何か一つの原因を特定しても、私の命が劇的に長くなるとは思っていません。痛みを伴う治療は避け、今できるベストな選択をすることが私の基準です。
こだわりすぎることは時に苦しみを生むことがあります。原因がわからないことに対して、それを究明するために多くの検査や治療を受けることは、結果的にストレスや苦痛を伴うことがあります。私は、自分がどこまで望むのか、何を重要視するのかを見極め、無理をしない範囲で対処することを心掛けています。
こだわりを持つことは時に大切ですが、それが苦しみを生むこともあるということを知っておくことが大切です。ラグちゃんの治療においても、自分自身の健康においても、あまりこだわりすぎないことが、心地よく生きるための一つの方法かもしれません。
こだわりすぎることなく、柔軟な思考で向き合うことが大切だと改めて感じました。皆さんも、こだわりすぎずに、時には諦めることも選択肢として考えてみてください。それが自分や大切な存在のためになることもあるのです。
お久しぶりです!
半年ぶりの配信となります。長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。今日は、私の近況についてお話ししたいと思います。
この半年間、体調が思わしくなく、配信やブログの更新が滞ってしまいました。その間、私自身も様々なことを考えながら過ごしてきました。そんな中でも、在処塾の修了生フォローアップ講座は毎月続けており、個別のフォローアップやホームページからのセッション申し込みなどもあって、少しずつですが稼働はしておりました。
特に印象的だったのは、海外の方が私を見つけてセッションを申し込んでくださったことです。不思議なご縁に感謝しつつ、その方に「どこで私をみつけてくださったのですか?」とうかがうと「悩みを相談できる人をと探していたら在処のサイトに行き着きました。」とのこと。セッションを通じてご先祖の守護が強いことをお伝えすると「じつは子どもの頃から祖父母にお墓参りにによく連れて行ってもらっていて、なんとなく先祖のことを考えることが多いんです。もしかして祖父母が縁を繋いでくれたのかも知れません」っとお話しくださいました。
在処のサイトは目立つ宣伝もしていませんので、飛び込みで来てくださるクライアント様はなんで見つけたのかわかりません、と言う方が多いんです。ここでお互いにお話しするのが必要なことだったのでしょうか。おもしろいものです。
この期間、私の目標は「安寧」にたどり着くことでした。
安寧とは、自分にとって最も安定したところに止まることであり、そんな生活を続けることだと思います。そしてそれを実践し続けることが私の日常でした。日々変化する世界の中で、自分の安定した場所を見つけることが大切だとつくづく感じる毎日を過ごしました。
幸いなことに、体調も気力も徐々に回復してきましたので、これからは再び皆さんに向けて発信をしていこうと思います。私たちが目指すべきは、日常の中での小さな幸せや安定を見つけ、それを大切にすることです。
これからも、私の経験や考えを共有しながら、皆さんと一緒に「安寧な生活」を探求していきたいと思っています。
次回の配信では、私が最近考えていたことなどをお話ししたいと思いますので、ぜひお楽しみに。
今後ともよろしくお願い致します。また次回お会いしましょう!
正月三が日を避けて、週末に栃木の実家に帰りました。
今年は長男のユウさんがいっしょでしたが、彼に「お母さんの兄弟って交戦的だよね」と一言。
交戦的というよりは、よくしゃべるし何でも忖度なく話すので、そう聞こえるのかも知れません。
もともと私たち家族は母子家庭で、母は仕事で忙しかったですし、そういうところで何か問題があれば自分たちで解決することが常でした。あとは母に面倒をかけさせてくなかったということもあったでしょうけれど。そいうことから何でも話すようになったのかも知れません。私も今は主人と結婚して新しく家族ができて、年もとりましたからなんでもいうようなことはなくなりましたが、実家に帰ると昔に戻ってしまうのでしょう。
過去の友人に会ったり、以前住んでいた場所に戻ったりすると昔の自分が蘇ってしまいます。一度つくられた習慣は消えるものではありません。環境に合わせて復活してしまうこともあるでしょう。でもそれを感じると、今の自分との違いを感じることもあります。あぁ今はもう違うんだな、とちょうどいい自分を確認する機会にもなるようです。
今年は年明けから地震、事故、火災、通り魔事件と災厄が降り注いでいます。
特に災害の時は何かできないかと思うのは当たり前のことですが、直後はプロに任せることが一番スムーズにことが進みます。素人は邪魔をしないことが大切です。
それでも、何かしたいと考えるのは、人として当然です。
そんな気持ちの落ち着かない時は、祈ってみてはどうでしょう。
「祈ったところで何にもならない。現実的に行動したほうがいい」
それは確かにそうなのです。
でも今どこかで悲しく不安な気持ちになっている人がたくさんいて、動かないほうがいいこともある時期なら何ができるかって言ったら、祈ることしかないではないですか。
人は肉体と魂のハイブリットです。フィジカルの肉体でできることが行動で、それができないときは魂のことをやったらいいんですよ。
祈りは魂の繋がり、心の問題です。
祈りで何か急に変わることはないかも知れませんが、何もしないより鎮魂の祈りで心を伝えたらいいと思います。
役に立つかどうかより、やらないよりやったほうがマシって考え方もこういう時はありなんじゃないでしょうか。
私は祈りますよ。
少しでも1日でも早く安寧な時間が戻ってきますように。
毎日キッチンで使うものといえば包丁が挙げられると思うのですが、切れ味が悪かったりするとイライラしませんか?
ずっと切れ味のいい状態を保つには研がないと行けないのですが、研ぎ石がどうのとか、カエシを作るだとか、調べれば調べるほど面倒に見えて、それでも気になるものだからずっと簡易の研ぎ気を使って騙し騙し使っていました。
ところが最近もっと簡単に考えたらいいんですよ、という動画を見てやり始めたら結構簡単で、素人にはこれぐらいでいいんだって自分のちょうど良いが見つかったのです。
するとサッと研ぐのが楽しくなってきて、毎日の食事作りもストレスがなくなっています。
ちょっとしたことですが、面倒だと思っていたことも「私にはそんな本格的でなくてもいいんだよね」という納得が得られれば十分だと思いました。
参考にした動画です
わかりやすいし、簡単です。↓就活ではなくて、就活のお話。
私は病気を持っている事もあって死んだ後困らないようにと、エンディングノートのようなものを書いています。
市販のものを見ると、葬式はこうしてくれとか、遺産はこうしてくれとか書くようにできているのだけれど、私はPC やSNSのパスワードとか通帳や貯金のことなどそういうことしか書いていません。
なぜなら、お葬式は生きて残っている人がやってくれることだからです。生き残っている彼らが私とのさようならをする儀式だから。
死んだ私は何もできないので、彼らのお任せするしかできませんよね。
もし私の希望を叶えようとしてくれることがあったとしたら、それは私が生きていた時に彼らと良い関係が築けていて、思いがちゃんと届いているということなのではないかと思います。
「この世のものは全て借りもの」ですから、寿命がきて体もお返しすることになるその後始末をお願いするのですから、あれこれ言うのも格好悪い気がしてしまいます。
生きているうちに棺桶に入る体験てやつも、私にはなんだか死者に対して不敬な気がして楽しそうにやっている人の気持ちがよくわかりません。避難するつもりはなくて、私にはわからないと言うだけなんですけれど。
死者にしかわからない世界もあっていいんじゃないかって思うからなのかもしれませんね。
最近よく聞く言葉「HSP」
「繊細さん」なんて呼ばれていますが、心理学用語なんです。
自己肯定感、なんて言葉も心理学の用語ですし、今や当たり前のように使われています。
ただ流行りのように扱われるようになってから、私には気になることがあります。
HSPが取り入れやすく、人との関係や生きにくさをこれが解明してくれたように感じた人の中には、それを理由に「感性が強くて繊細だから、うまくやれないのは仕方がない」と言い訳に使う人が多くいることです。
実際うまくやれないことで、不安になったり心配になったり、苦しくなったりすることがあるのはわかります。でも自分の生きづらさを何かのせいにして、自分で修正することをしない理由にするのはいかがなものかと思うのです。
人は陰と陽。そのバランスが大切で、良い事もあれば悪い事もあります。
一概にいいことばかりに目を向けるのではなく、問題があることや悪いと思えることを修正することが大切です。そうしなければ、何も好転することはないからです。
嫌な部分を無視したり、そこから逃げるのは簡単。
そうすることで少しは楽になるかも。しかしまた同じことは起こるでしょう。対処を学んで、変化していく自分を受け入れることを私はするべきだと思うのです。
逃げずに立ち向かう人を応援したいと思います。
今年のハロウィンは、渋谷の混乱もなく無事に終えたようで安心いたしました。
渋谷区長も、イベントがあれば何かと人が集まってくる名所と化したスクランブル交差点は悪いことの象徴になってしまって困っておられたことでしょう。「渋谷に来ないでください」発言をした気持ちもわかります。
私は当日可愛らしいハロウィンの仮装をした女の子を見て、ほんわかした気持ちになりつつ、もうどうせ日本のハロウィンはただの仮装イベントに成り果てているのだから、大人ではなく子どものイベントとしてやればいいのにと思ってしまいました。
誰も元は北欧神話からのものだとか、死者の復活だとか言っても、ほぼ無宗教で多神教の宗教観だけが伝統というか文化として根付いているように見える日本人の感性でいくと、海外の宗教色の強い祝日はただのイベントや人が集まる口実にしかならないように思います。
しかも仮装なんていうと、大人がやればちょっと痛々しく見えてしまうし、そうでもしないと日々の鬱憤が晴らせないと思われるのも大人気ない。
だからもう仮装イベントとして、子供だけが楽しむものにしたらいいじゃないかなって思ってしまいます。もうアメリカの「トリックオアトリート」でいいじゃないですか。
私の通っている大学病院を受診してきましたら、の会計システムが新しくなったことで、お会計の受付が大混乱、カオスな状況になっておりました。
お年を召された方々は、今までとは違うことが受け入れ難いようで「めんどうね〜」とおっしゃるかたが大発生。習慣の奴隷であることがじんわりと伝わってきました。それは年定的に仕方がないことかも知れませんが、あちらこちら目につくところには、新しい流れの説明が書いてありますし、事務の方が聞かれれば丁寧に話してくれています。
それでも理解力には個人差があって、まだなんとかしようとしている人はいいのですが、そうではなくて「なんともならないから、なんとかしてくれ」と受け身で自分でなんとかしようとしない人がいたりするのが、如何ともし難い。
理解できる、できないには能力の差があるとは思うのですが、最初から理解しようとする努力すら投げ出してしまうのはなんだか情けない気がして悲しくなります。
以前はこういうこともアナログであれば、曖昧だったりグレーだったりも飲み込んで流してくれていたのかも知れません。しかし今や0か1のデジタルだからこそ、「できる、できない」「やれる、やれない」がはっきり見えてしまう。どちらかに帰属することが明確になってしまって、誤魔化せない、でもできないとかやれないとは思われたくないなんて気持ちが、人をイラつかせているような気がします。
これも「二極化」の一端なのかも知れません。
もう社会の中では区別されてきてしまっています。それを「まぁいいか」と自分の心で曖昧にしていかなければ、私たちは苦しくなってしまうかも知れません。
もう「自分がどう見られるか」ではなくて「自分はどう在るか」に軸を置かなければならない世界が到来したのかも知れません。