みなさんご機嫌いかがですか?
生きにくいこの世界で
自分を知りたい、自分を変えたいというコアな人に向けて
楽に生きる楽園思考を指南する、在処塾を主催しております。
本日のよろしくお願いいたします。
今日のエピソードは、サポートのタイミングについてお話ししようと思います。
私が主催する在処塾に来てくださる皆さんは、基本的に純粋で優しい方が多いのですが、もちろん社会の荒波に揉まれてその純粋さが少し歪になってしまっている状態だったりします。
そんなみなさんはその歪さから、自分らしさや考え方を見失ってしまって、「助けて!」と在処塾の門を叩いてくださるのですが、そんな時これはサポートでいいのか?ヘルプなのか?はみさだめる必要があります。
私はサポートかヘルプが必要かをどうかは、指導者が見定める資質を求められていると思います。
そして何か下のアドバイスをした後、その人ができるかどうかを見守ること。「待つ」というもの大切な資質だと思います。これ結構試されますよね。
ここではアドラー心理学でいう「課題の分離」という考え方が、とても有効だと思うのですが、この「課題の分離」も簡単に理解して実践するのはむずかしいことなので、慎重にならなければなりません。
それぞれが自分自身で成し遂げる必要があるものは自分でやるべきで、且つお互いが魂の尊厳をリスペクトし合って、自立していくことを大切にすべきだと考えます。
サポートもヘルプも、その人をよく観察して何が必要でそうでないかを見極める目は、経験値を貯めた直感が大きく作用するところではないでしょうか。
簡単にできることではありませんが、「これは!」と勘がささやいた時は無視しないで全力でアドバイス力そして介入力を発揮するべきでしょう。
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みなさんご機嫌いかがですか?
やっと念願の映画を見に行ってまいりました。毎月1日はファーストデイと言って、安く映画が見られるんですね。
「劇場版PSYCHO-PASS PROVIDENCE」がやっと見られました。
まだ公開している映画館が八王子では南大沢でしかやっていなくて、久しぶりに八王子を横断していってきました。
八王子って広いんですよ。私が住んでいるのは高尾山に近い山の方で八王子市街の方が近くて、昔から住んでいる人が多い地域なんですが、南大沢は比較的新しい移住してきた方々がお住まいの地域で、高層マンションとかアウトレット商業施設がある綺麗な街。
ちょっと我が家からは遠いんですよね。
最近体調が低調だったのもあって行くだけで疲労感が半端ない。
こういう体調が低調な時は、心も力が発揮できない状態のことが多いようです。
行く途中でも信号によく止められたり、道路工事で規制があったり、いったお店が準備中だったりね。
以前「根拠のない自信で思う通りのことを引き寄せる」お話をしたと思うのですが、これを実行できるのも、メンタルとフィジカル両方が整っていないとなかなかむずかしいものです。
心身が整っていない時には、注意力が散漫になったりして物事が上手くいかないことが起こりやすいのでしょう。そう言う時にあれこれ止まったり、止められたりするのかも知れません。
それ自体が注意喚起で、お知らせなんだと思うと、無理しないのが一番。
やっぱり一回、なんでだろうって、どうしたんだろうみたいな感じで振り返るとか止まるとかっていうのも、私、悪いことじゃないと思うんですよね。進むだけがいいわけじゃないと思うんですよ。人には絶対に進むべきタイミングみたいなのがあるはずなので、やっぱりスムーズにいかない時ってそうじゃないのかなって私なんかは思っちゃうんですよね。これね、これは都合のいい考え方なのか、それとも私にちょうどいいものを得ようとする時のしなやかな考え方なのかっていうところに至るわけなんですが、私はですね、しなやかでいたいので、しなやかな考え方だと思って受け取ろうと思います。
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みなさんご機嫌いかがですか?
本日はペルソナの付け替えについてのお話。
お仕事やビジネスの世界で言われるペルソナは、キャラクターっていう意味のことだと思うのですが、私がいうペルソナとは「役割」のことです。
ペルソナを自分の役割だと考えると、例えば私の場合「妻・母・娘・長女・姉・叔母」などです。
一般的にみなさんも二つ以上はあるでしょう?
仕事をしていれば社会と接する上で、よりペルソナは増えるでしょう。
よく言われるのは、裏表がないこと、そして一貫性があることをよしとする考え方です。そうでないと、良い人と見られないと思っている人は多いのではないでしょうか。しかし
人間関係でコミュニケーションをしている時苦しくなってしまうことがありますね。
もちろんコントロールドラマをしていたり、巻き込まれてしまってそうなることもありますが、時に状況にあっていないペルソナを被ってしまったことで、考え方にブレが生じることで苦しくなることもあるのではないでしょうか。
社会性を発揮して生き抜くためには、臨機応変であることが大切です。
そのためにはその時々にあわせて自分のペルソナを付け替えて対応することが上手くいくキモになります。
いつも同じ自分でいることは時には相手に気を使わせたり、対応を難しくさせたりしてしまいます。
それは大人としてはちょっと恥ずかしいことかも知れません。
自分の持つペルソナ「役割」を考えてみてはどうでしょう?
そして上手く付け替えて、コミュニケーションに役立ててください。
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みなさんご機嫌いかがですか?
今日は雨降りで結構寒さが身に染みます。
台風も来ているようなので、該当地域の方はお気をつけください。
さて本日は、謝ることは得意ですか?というお話。
私は子育てしてらっしゃるお母様方とお話する機会を結構いただくんです。
もちろんお父さんお母さんも人間なわけで、間違いも犯すし失敗もします。 勘違いもするでしょう。そういった時にパッと「あ、ごめんね悪かったわ」「 申し訳ない」って謝ることができますか?と伺うと、だいたいやれてませんというお答えが返ってまいります。
それでいて、「うちの子ごめんなさいが言えないんです」とおっしゃる。
子どもは親をモデリングしていますからね。そりゃご両親が身近で間違いを犯した時に、子供にもちゃんと謝れなかったら、そりゃお子さんもできるはずがありません。
ではそうして謝ることができないんでしょうね。
大人になると、プライドとか立場とか色々しがらみもあるでしょうが、一番は「自分は悪くない!と思っているからなのではないかと思います。そうでなく、責任は自分にあると思えば、謝罪はできますよね。でも日常の中では責任とかそんな大きなことではなく、ただ相手に不愉快な思いをさせたことんほうが原因として多いように思います。
問題の解決とか、修正も大事でしょうが、私ままず「そんな不愉快な気持ちにさせてしまったこと」に対して謝ることはやったらいいのにと思います。
みなさん、問題解決と、相手に気持ちを不愉快にしたこととか、すべてをいっしょくたにしてしまうから、気持ちが置いていかれてしまって最終的に感情論のようなものになってしまうのかもしれません。
もちろん大きな事故などを起こしてしまったっていうようなことがあれば、それに対して事故が防げなかったことを謝罪することは当たり前のことです。しかし一般的に私たちが日常生活の中で謝るっていうようなことが起きる時っていうのは、大体なんでそうなったのか、失敗したか、間違ったかなんて理由なんてほぼどうでもいいんです。
何が大事かって言ったらその人に悲しい気持ちとか怒りとか、不愉快な気持ちにさせてしまったことが問題でそこのところをやっぱり皆さん見てるわけですよ感じてるわけなんですよね。
なので私はまず基本的にはとっさに言い訳は絶対するなとお話しします。
大事なのはきちっと「その問題と原因」と「その人の気持ちを不愉快にさせたこと」っていうのをきちっと切り分ける必要があるんじゃないかと思います。
気持ちが置いていかれて人は悲しいし怒るんです。まずはそこを押さえたらいいんです。
元2chの創始者であるひろゆきさんがですね、よく「論破」とか「それはあなたの感想ですよね」みたいなことをおっしゃっていますが、そもそも話し合いに勝った負けたなんていうのを持ち出すこと自体があまりにも幼稚じゃないかと思います。
話し合いっていうのはやっぱりそこでお互いに自分の意見をちゃんと相手の意見も聞き、自分の意見も話して、そこでより良い結果を出すことだったり、ちょうど良い落とし所を見つけることにありますよね。
勝った負けたではないんですよ。
大人がやることでは私ないと思うんですよね。
自分が正しいということを証明してだからなんなんですか。何が残るんですか。
いい気持ちになるだけでしょ。
そんなことしていると嫌われますよね。相手を傷つけますし、そうするとそういう人と話したくなくなるじゃないですか。そうする排斥される。社会で一人で生きていくことはできないですからそれでいいの買った話になると思うんです。
一番大切なのは、勝つことじゃないです。仲良くすることだと思います。
謝ることは決して負けたことではありません。
人間関係の中に勝った負けたってそんなに大事ですか。で私はどっちかというと本当に勝つことっていうのって一体何なのかって言うと、みんなと仲良くできることなんじゃないかと思うんですよ。私の居場所がそこにあることなんじゃないかと思うんですよ。
謝るの苦手だなって思われている方はぜひ切り分けてください。その事実起きてしまった良くなかったこととその人の感情を不愉快にさせてしまったことっていうのを切り分けて感情に対して謝るっていうことなら仲良くしたいからできるはずです。 だからそこをやってみてはいかがでしょうか。
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日曜日夜の8時から9時まで江野澤先生とインスタライブやらせていただきました。
聞いてくださった方ありがとうございました。
前回のインスタライブでは金運アップのおまじないを皆さんにお教えしたんです。
興味のある方はやってみて結果を教えてくださいね〜なんてお話ししたのですが、実際やってくださって臨時収入がありました!という方がいらっしゃってとても嬉しかったですね。
その方ですね、きっちり信じてやってくださったんだと思うんですよね。
こういうまじないみたいなものは、素直に信じてくださるのが効果を発揮するのには最も大事なことだったりします。
昨日もお話ししました、根拠のない自信です。あ、もう臨時収入来るわ、来ますよね、みたいな当たり前のような状態で、意識の中にそれを眠らせるということが大事なんです。
そして一旦真剣にやった後、忘れるという行為が、このまじないを現実化させるスイッチになってたりするんですよね
なんだよ忘れるって、そんなことをしたらダメじゃないか。と思われると思いますが、顕在意識で思いをかけている方がかないません。忘れることで無意識を操作することで、現実を動かすということなんです。
私も昔、無意識の部分を変化させることにチャレンジしていたことがあるのですが、「願ったら忘れろ」は何度も言われて、「どうやるんだよ!!」と思った経験があります。
こればかりは自分でやりながらどうやるかも探さなければできません。やるしかないってことですね。
でもやったら見つかりますよ。
私自身は見つかましたし、実際使って現実が変化していますから、ぜひチャレンジしていただきたいと思います。
無意識のエネルギーは大きいですからね。
やれれば世界を作り変えることも可能です。
もう訓練するしかないんですよ。面白がってやり続けてもらえたらいいなと思います。
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みなさんご機嫌いかがですか?
本日は引き寄せるということはどういうことかというお話。
そして引き寄せる訓練する方法をお教えしましょう。
そんなに難しいことでもないので、ぜひ日常生活の中で取り入れていただくと当たり前のように自分にちょうどいいものが手に入るようになっていくはずですので、やってみていただきたい。
実験してほしいんですよ。
実験して本当にそうなるかっていうところを体感してもらいたいのです。
もしそうならないのであれば、何が足りてないのか、何ができてないのか、どうしてそうならないのかっていうところとかも検証していただけると、どんなものでも引っ張ってこれるようになるかもしれません。
まずは混んでいる駐車場にいつでも、いい感じの所に止められるかと言う実験です。
自分で運転していても、同乗してても同じなんですが、自分にとっていい駐車場が勝手に空いてスムーズに止められるっていうことをチャレンジしてみてください。
私の場合、ほぼ毎回やれてるんですよ。
どうすればいいかというと
大丈夫、私にちょうどいいところが空いているはずという、「根拠のない自信」を持つことです。
そしてこの「根拠のない自信」を持つことで、駐車場にうまく止められるという成功体験を積んでいくことが大切です。
大事なのは、全く何の理由も根拠もなく、強く自分を信じることです。当然だ、当たり前だって思うことです。これちゃんとそう思えるかって、結構訓練が必要です。思い込むことではなくて、それが自分に染み込んでいることができないとうまくはいきません。ですから訓練が必要で、そう思うことが習慣化されないといけないのです。
そしてもう一つ、うまくいかなかった時はどうするかってことです。
駐車場にうまく止められなかった時、私は
「うまくいかないってことは、私の根拠のない自信に翳りがあったな」と思ったり
「うまくいかないことにも意味があって、私に何を学ばせようとしているのか。」と考えます。
うまくいかなかったことにイライラしたり、怒りを感じることはありますが、それを感じたとしても、今はそうなんだな。と捉えます。
うまく止められなかったとしても、どんな時にも、ああ、これが私にちょうどいいんですね、ありがとうございますっていうふうに言いますし、実際口に出します。
すべてを肯定するという思い変えです。
ああ、これが今日の私のちょうどいいか、あざますみたいな感じで思うんですよね。それを繰り返してると、確率がどんどん上がっていくんですよ。うまくいく確率。
結局、来るものは拒まず、去るものは追わずみたいな精神にちょっと近いところあると思うんですけれども、起きることそのままを受け取るっていうことだと思うんですよね。私たちってやっぱり欲があるので、こうだったらいいな、ああだったらいいな、つまり駐車場なら出入口の近いところに停めたいとか、あんま遠くに停めて歩きたくないとか、カンカンカンカン日が当たっているようなところには停めたくないとか、それっていうのは自分の欲っていうんですかね、コントロールなんですよね。それをある意味自分の欲に後押しされて、その欲をコントロールとして発揮すると、君には今これだよって差し出されたものをもらわないっていうことがわけです。
もらえないんじゃないです。
自分が自らもらってないっていう考えてみるとどうだろうかなって思うんですよね。
なんで私こんなに不幸なんだろうとか、なんで私いつもこんなにつらいんだろうっていうふうに思われる方たくさんいらっしゃると思うんですけれども、そういう時にですね、そもそもそれが起きている原因っておそらく自分なんですよ、全部。
こうであってほしい、こうじゃなきゃダメだとかね。そういう、我欲によって自分が、自分の運とかそういう必要なものみたいなのを差し出されているのに受け取らない。
それは今の私の欲しいものじゃないからなんですよね。
でも違うんですよ。
この世界から差し出されているものっていうのは、どう使うか、今使うかどうかはともかく、とにかくもらわないといけません。変な話なんですけど、一人の人間がコントロールできるような世界であるはずがないんですよ、ここの世界。思うに任せないのが当たり前であって、思うに任せないのは何かというと、自分がこっちに行きたいのにそうじゃない方を差し示されたりするからなんですよね。でもそうじゃないんですよ。自分が行きたいそっちは本当に行くべき道かってことなんですよね。
大変申し訳ないんですけども、ノートに自分の夢を書こうが、人にこうなりたいと宣言しようが、そんなもので大事なことは引き寄せられませんし、願いは叶いません。それはコントロールだったりすること多いからなんですよね。こうなりたい、ああなりたいって。
目的目標はある意味ものすごく手前で必要なことのように思います。
年齢的に若かったり、時間的な経験値がまだ充実していない場合はやったほうがいいこと、持ってもいいこと、そのようなものなのではないでしょうか。
経験を積んで、成功体験をしていくとというのを目的目標を持つことで、一個一個クリアしていくっていうのかな。成功体験を積み重ねていくことで人って勇気が出ますし、そしてそれが根拠のない自信の実は元になってたりもするので、それがないといけないんですよね。だから、それを得るために目的目標を達成することは最初大事なことだとは言えると思うのですが、そこそこ年齢上がってきて、人格も上がってきた、器もそれなりに整ってきているという状態になってきているのであれば、目的目標なんて持っている時点で、全く持って何も自分の思う通りにはならないと思います。だから段階があるんですよ。
だから、いつまでも幼い時に成功したことをずっと繰り返している人っていうのは全く持って成長しないですよね。やり方ってね、どんどん変わっていくんです。考え方もどんどん変わっていくんですよ。ですので、ぜひですね、自分がどの程度のものかっていうのを、駐車場で車止めるので試してほしいんです。
自分の思う通りのことを引き寄せたいと。本当に引き寄せるということはできます。やれるんです。ただやり方はそんな簡単にできることではありません。訓練が必要です。
自分の心の訓練です。根拠ない自信を常に持って歩けることっていうのが、とっても大事なことになるんですよね。
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先日お話しした、モヤーッとした話。
あれから2日経って在処塾生のフォローアップがあって、その後に久しぶりに江野澤先生と事務局の大島ちゃんと私と、3人でまたおしゃべりをしてたんです。
あの時はあの時で、自分の決めた納得回を、よし、ここは大人になって一つ嘘をつくぞ。
相手の課題に踏み込むことになってしまうので、自分の正直な気持ちはいうのはやめようと思いましてですね。
相手の方にはそういうお返事をしたんですけれど。
それなりに上手にはやれたんですが、なんだかすっきりしなくてちょっと詰まってるみたいな感じ。
仕方なしに出した答えだったりしたので、2人に愚痴を吐かせてもらって、どうなんだろうって言って
こう思うんだよね
こうなんじゃないかな
みたいな話をして
そのモヤりの原因っていうのが、これ無駄にスピってる感じになってしまうんですが、私の特技の一つに、未来を見るって言うものがあるのです。
それがわかるからこそ、この方はこういう風な方向にも考えを修正していったらいいんじゃないか?という未来みたいなのを見てたんですよね。
だけど、その方は予想外の選択をしていて、しかもその未来をとっても喜んでらっしゃるわけ。
その選択が私の想像を覆すというか、私の中では見たことない筋だなっていうのがちょっとあって、その意外性が受け入れられなかったのかもしれません。
自分のやるべきことから逃げずにそれを取り組んで身につけて、この世界の理(ことわり)に沿った選択をしていける強さっていうんですかね、簡単に言うと、こだわりではなくて信念みたいなところだとは思うんですけど、そういうのをきちっと自分の中で構築して持っている。それをやり続けるというか、やり遂げようと努力するみたいなのがベースにあって、それをしていくと、まあまあいい感じになっていくものなんです。
私がモヤっとした相手の方は、やっぱり全く違う方向に向かっていったんですよね。多分ベストではないんですよ。一番いい選択肢ではおそらくない。私が見るところそんなに今選ぶべき選択肢ではないっていうのかな、みたいなものだったりしたので、私驚いちゃったっていうのは、見たことない選択したからっていう。
それをするとおそらく遠回りだし結構大変。急がば回れっていう素敵な格言もありますのでね。それがその人の生き方だっていうことにもなるんだけど、それでもやっぱり私もその相手の方すごく大好きだし、心配してるし、よくなっててほしいなって思うので、私にもそれぞれそれなりの欲があるわけですよ。その欲が発動してそういう気持ちになっている。
私はもう本当に人に対する期待っていうのが、何は何せ最も大きな敵というか、傲慢さと同じぐらい敵だったりするのでそれが発動したのでしょう。困ったものです。
私の場合はやっぱりどうしてもそれが自分の欲に直結するもんですから、私が苦しくなっちゃうんですよね。
で、私がその未来の筋に、いくばくもその人が選んだ未来がないんだよね、時間軸がないんだよね。だからきっと結構大変な方を選んじゃったのかなーなんていう話をしていたら、マーサ先生が、なんか私今ちょっとわかったかもしれませんって。
リアルな現実の世界でやっぱり私たちは生きているから、その今世の自分のやるべきことっていうものが一つ。そして逆に輪廻を信じるのであれば、その輪廻の中で自分が学ぶべきこと、やらなければならないことっていうのがこの二筋があるんじゃないかって。
今年のお正月に江野澤先生と今年の予想動画を配信したのですが、そこで2つの世界の話をしたのです。
その2つの世界っていうのは、「善と悪」「白か黒」「金持ちと貧乏」だったり、2つしかない世界なのではなくて、変な話、私のいる場所と、それ以外の場所っていう、その、ある意味、私たちが持っている役割とか、ペルソナの数だけ、その世界観っていうのがあるわけなんですよ。
2つの世界っていうのは、ものすごくたくさんあるわけです。
二極化という言い方を数年前してたことがあるんですけれども、二極化とかいうことではなくて、その、私のいる世界ともう一つの私のいるべき世界みたいなのが、いろんな形でその環境が違ったりとかするところで、たくさんぽこぽこ生まれてると。そこを私たちが、まああの、状況に合わせて行き来してるんだよねっていう、これが2つの世界の、まあありさまなんだと思うんですよね。
で、私がもやーっとした相手の方は、たぶん、そういう2つの世界があって、だからその、現世、現世の、現世に生きる私と、今の今世の私ね、あとその輪廻を繰り返している魂の私っていう、この2つの世界を行き来した時に、あの、その現世の私っていう方に居続けることを決めたと。ただそれだけの話なんだっていうのがとっての腑に落ちる結論だったわけです。
その方は社会に貢献する力がが大きいと思っていたのですが、その2つの世界の現世の方を選んだのですが、私はそうじゃない方を選んで、欲しかったんです。
人に貢献することよりも、自らの喜びを選ぶみたいな。それはそれとしてその人の選択ですから、私にとやかく言う権利なんてないんですけれど。
今日はぐっすり眠れるかも。
私の中に一つの答えが見出せましたし。
今回は諦めたんじゃないの。ああ、そういうことかって分かったみたいな感じ。気づかされたって感じなんだよね。
まだまだ新しい世界ありますよね。
私に新しい世界という考え方を見せてもらえたのはおかげさまなので、そういう意味では良かったなって思ったりいたしました。
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みなさんご機嫌いかがですか?
今日のお話は、ベジタリアンと精進料理のお話。
世の中には菜食主義の方やビィーガンのように厳しく食事の制限をしている方がいらっしゃると思うのですが、そういう方達にとっては日本の精進料理は安心して食べられるお食事のひとつなのではないでしょうか。
ただ精進料理っていうのはやっぱり主義主張とかポリシーとかいうものではなく、一つの文化というか宗教観を反映したものの一つと考えると、食事としても側面もありながら、決してそれだけではないのではないかと思わされます。
バックグラウンドが仏教というか宗教に根差したお食事ということになるので、その食事をするということも一つの学びというか、その修行の一つなんでしょうね。
だからただの食事ではないので、食感が嫌だから残すとか、食器に食べ物のクズを残してしまうとかそういうことはちょっと違うのかなと思います。
私なんかは純粋培養の日本人なので、キリスト教とか特に一神教の考え方がなかなか理解できなかったりします。理解したいとは思うので、調べたり学んだりはするのですが、やっぱり芯のところはああそうかって腹落ちするところまではなかなか難しい。これってびんかの違いがそうさせてたりもするんじゃないでしょうか?
そうなると精進料理をただ食べるということだけではなく、一つの文化を体感してもらうという意味合いも大切なのかもしれません。
精進料理っていうものに対するその仏の心というか、食事をするっていうことっていうのは、決してその食事をするというだけではなくて、生き方みたいなものも反映されているんだなぁって思ったりいたしました。
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みなさんご機嫌いかがですか?
令和5年5月13日 コロナが5塁になったことを受けて「神田祭」が開催されます
我が家は主人の会社が神田明神の氏子さんで、よくお手伝いに行くのでご縁があります。
実際にお祭りに参加したいのはやまやまなんですが、やっぱり観戦に危険を考えてあの人混みは避けることにして、YouTubeでライブを見させていただいています。
この祭りを皮切りに、コロナで自粛されていた全国各地のお祭りが再開されることでしょう。
やっぱりお囃子を聴いたり、御神輿の掛け声を聞くと日本人のDNAなんでしょうか、血が沸き立つというかワクワクするというか不思議な気持ちに襲われます。
日本人の文化としてずっとあるからなのか、あとはやっぱり、そこに何かがいるなっていうのがわかる。
神様がいるから人がそれを思い願う、慕うということよりも、人がいるからそこに神がいるような感覚っていうんでしょうか。
人のエネルギーっていうか、そういうものも感じられて非常に面白いなと思ったりしております。
皆さんも、御縁のあるお宮ってあると思うんですよ。
例えば自分が生まれた時に近くにあった産土神社であったり、自分の今お住まいの地域にある、この地域を見守っている神社であったり、そういうお宮とは、きっと御縁があって守ってくださっているはずなので、お祭りがあったらぜひお出かけになると、自分の魂のガードが固くなるというか、清々しい気持ちにもなったりしますから、ぜひ行ってみられたらいいんじゃないかなと思います。
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