みなさんまわりを見渡していただくと、いつも怒っていたりなんでも攻撃に転じてしまう人いませんか?
そういう人と関わるのは不愉快ですし、傷つけられることも多いですから付き合い方には注意が必要です。
基本的に攻撃的な人やマウントをとってくる人というのは、自分が正しいと思っている方が多いように思います。そしてその正義感を周りに押し付けがちなんですね。思い込みが激しいともいえます。そしてその思い込みは、得てして自分は間違っていない!に帰着していますので、まわりの人や空気感で少しでもその自分を否定するようなものを感じると
やられてしまう
傷つけられてしまう
と感じて、自分を守るために攻撃してくるのかもしれません。
そういう人に出会った時には、反撃する前に相手が不安や恐怖を感じているのかもしれない。そして自分を守りたいがために「攻撃が最大の防御」と思って怒ったり煽ったりしてくるんだなと思ってみてください。それが心の余裕となって、相手との距離が取れると少し落ち着いて対応することができるかもしれません。
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みなさんごきげんいかがですか。
大人になって夢を語る時
「家族の笑顔が見たい」なんていう事がありますね。
一見いい話だし、これそよくないと思う人はあまりいないんじゃないかと思います。
普通は「いいですね。そうなるように頑張りましょう。」なんでしょうけれど、私はちょっと気になります。
これ自分が「家族に笑顔が見たい」と思っていて、家族が笑顔でいてもそうでなくても「笑顔ならいいな」って思えているだけならいいんです。でもここで、
「私は家族が笑顔でいることがしあわせの形だとおもっているから、そうしてくれないとイライラする」ってなってしまうと、それはちょっと違うのかなって思うんです。
あくまでも「家族が笑顔でいる」のはあなた自身が理想として描く状態であって、仮に家族ががイライラしていたり怒っていたりしていても
「あぁ、今はイライラ(怒って)いるんだな。」と、相手の状態に関しては切り離しておく必要があると思います。
これ「課題の分離」です。
ここで自分の理想を相手に押し付けて
「私は家族が笑顔でいることがいいと思っているのに、あなたはどうしてイライラしているのよ!あなたがそうだと私のしあわせの形が壊れちゃうじゃない」というのは、ただの理想の押し付けですし、自分勝手なコントロールかもしれません。
私たちが自分の幸せな世界を作るためには、自分がしっかりと確立されている事が重要です。つまり自分軸を持っているという事ですね。
人に振り回されず、それでいて相手を思いやりつつ自分の意見をまっすぐに伝えること。そしてそれを実践すること。
かっこいい夢を語っているようで、自分勝手なことになっていないか?
振り返ってみてはどうでしょうか。
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今回のお話は「言葉は思いを込めないと話してはいけないのか」というお話。
ある方のご相談で、職場での人間関係がうまくいかないという。
そこで「コミュニケーションの中で、職場の人にありがとうと言っていますか?」とうかがいましたら、「??言ってるつもりですが。。」とのお答え。
なるほど・・・
それはおそらく言ってない。
「ありがとう」と言わなければいけないと思っているうちは、おそらくいえていないことがほとんどです。
ではなぜそうなるのか?
私たちの世代の方たちは、義務教育で「道徳」ってやつをお勉強したかと思います。
それって簡単にいうと心のお勉強なわけですが、子供の頃など初級編としては「喧嘩両成敗」とか「心を込めておはなししましょう」とかいうことはやってもいいと思うのですが、大人になるにつれてそういうことではどうにもならないことにぶつかって、それでも子供の頃の「道徳」をひきづっていると、いまくいかないことが多く起こることがあります。
そこに「ありがとう」がいえない原因があるように思います。
心の底からありがとうと思えていないのに。言葉にするのは良くないという思い込みがあるからです。
いやいや、思いがなくとも「ありがとう」は言わなくてはなりません。
これはお腹が空いたらご飯を食べるとか、そういう習慣と同じことです。
よく考えてみて下さい。
気持ちがなくとも習慣としてやっていることで、私たちは生活をしています。
これが生きる時には大事な事もあって、相手を罵ったり批判する時は、何も考えずに感情のおもむくままに反応で言葉を発するのに、どうして良い言葉である「ありがとう」には気持ちを乗せないといけないのでしょうか。
人間関係をうまくやっていくためには「行動と心(感情)を切り分ける必要があると、私は考えています。
例えば仕事中、あれこれ口や手を出されるのはとても不愉快だが、そうするのは私の仕事ぶりを心配してのことかもしれないと考えたら、
「私の仕事ぶりは〇〇さんからみたら至らないと見えるのでしょうね。心配してくださってありがとうございます。でも他の職員さんのいる前で私の仕事に多くの指摘をされてしまうと私の信用にも関わりますし、私も悲しい気持ちになってしまいます。できれば二人きりの時に指導していただけると助かります。よろしくお願いします」
と言ったらどうでしょう。
色々言われて腹が立ったからその相手を無視したり、反抗したりするのは簡単です。
もちろんそんな気持ちになればそんな相手にありがとうと感謝する気持ちが持てるはずもありません。
しかしここで何かしらその人の良いところや感謝できそうなことが見つかったら、気持ちは「ふざけんなよ、この野郎!」と思っていても言葉はありがとうと伝えるのは、人間関係を円滑に進めるのに必要な詭弁と言われるものです。
自分の気持ちに嘘はついてはいけません。
ですから
「私の信用にも関わりますし、私も悲しい気持ちになってしまいます。」と正直な気持ちもちゃんと伝えます。
しかし「心配してくれた」のかもしれないのであれば、たとえそうでなくても私はあなたの態度をそうとらえたという点で嘘ではないわけなので、「心配してくれた」と私が感じたそのことについて「ありがとう」と感謝を伝えるのです。
みなさん「心と行動」は切り離すことができるものです。
そしてそこを切り分けることで、人との関係をうまくやっていくことができます。
何でも気持ちがなくてはいえない言葉など、ありはしません。
言葉はうまく使う一つのスキルであり道具です。
使いこなすことのほうが大切なのではないでしょうか。音声配信ブログ 毎日更新しています
本日のお話は「変わると決めた人にはなにがやってくるのか」というお話。
2020年に在処塾にきてくださってはや3年のEさんは、今年の2月に起きた家族の大きなトラブルを乗り越えて、ついに彼女の愛の本質と感謝に満ち足りた世界はすでにあったことに気づいてくれました。
人にはそれぞれに知るべきことも、なすべき事もあって、自分のそれをしっかりと受け取ることは人生を楽園にするのにとても重要です。
問題はそれをやろうとするかという意志と、やると決めるということ。
意志や思いがこの世界をそうたらしめ、決めることでそのために必要な状況が用意されます。
用意されると言いますが、無意識が自分が変わることで得られる世界になるべく物事をそうなるように選択してしまうだけなのでしょうけれど。
わたしはそうやって「決めた」ことで変化していく人をたくさん見守ってきました。
「決める」と必ずそれはやってくる。
どんなかたちでやってくるかわからないのは恐ろしく不安でもあるでしょうが、だからこそやり甲斐もあればチャレンジする気概も生まれます。
決めたら逃げないでください。
あなたの意志がそう望んだのですから、真っ向勝負です。やり抜いて下さい。
そうすれば足るを知る、満たされた世界に生きることができるでしょう。
簡単ではないからこそ、取り組みがいがあるものです。
自己成長の旅への一歩を踏み出してみてください。
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本日は「運勢が悪いと言われたら、落ち込むより注意をしよう」というお話。
今朝は朝から情報番組を何気なくみておりましたら、
「今日最も運勢が悪いのは、双子座」
という文言が聞こえてまいりました。
かくいう私は太陽星座双子座でございます。。。
まぁちょっと気になりますよね。
で、私の場合運勢が最悪と言われたなら
「よっし、どんな悪いことがあるのか探してみよう!」とちょっと面白がるようなことを考えます。
朝から最悪なんて言われたら、嫌な気持ちになるのが人の常かと思いますが、そこ思い変えたら世界は一変します。
私の思い変えは先ほどの「どんな悪いことがあるか探してやるぜ」と面白がる思考の変換するのです。嫌なことが本当に起こるのか、自分で検証しようと面白がってしまうんです。
私の元々の天邪鬼な性格もあるかもしれませんが、朝から最悪ですなんてことがに縛られてなるものか!と思ってしまうのです。
結局何も悪いことは起きませんでしたね。
これも私は面白がると思え変えたからだと思っています。私たちの世界は自分でつくるものですし、どう作られているかといえば私たちの思考・意識が現実を作り上げるのですからね。
ただ、星のバイオリズムがあることも信じていますので、星まわりが悪いということは流れが低迷していると捉えることもできるので、事故やアクシデントなどには注意が必要ではないかと思います。そこでいつもより周囲しながら生活しようとは思います。
結局人は主観で物事を見たり聞いたり感じたりしますから、自分がどんな心持ちでいるかは大きな変化をもたらすのではないでしょうか。
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本日の話題は「特別であることは特別じゃない」ということについてです。
私たちは自分自身がまわりと違う存在であることを自覚することは当たり前のことです。
ただそれを振り回すことは自分勝手ですし、結構周りからはイタイ人認定されてしまうことがあるかも知れません。
特別であることは実際には個性的であることとは違って、あなたがあなたらしいという「唯一無二の存在」というだけのこと。
誰もが特別なわけで、だからこそみんな特別であればそれは誰もが特別では無いことと同義ではないでしょうか。
特別だからといって他の人と大きく違うことであってり、大きなことを成し遂げるわけではないのかもしれないのです。違うということにこだわりすぎると、自分のやるべきことを見失うこともあります。
人それぞれが持つ個性、自分らしさを大切にし、自分自身のやるべきことに気付いて、物事を考えることが大切なのではないでしょうか。
最後は結局、自分の持ち前を知り、全てを持っていると足るを知る。
あなたの持つ人間性が、やるべきことをやり遂げるための力になることでしょう。
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みなさんご機嫌いかがですか?
本日はやっぱり私は「自分を知りたい」っていう人とつながりたいというお話です。
子どもの頃から
自分て何だろう?
何で生まれてきたの?
何しに生まれてきたの?
何でこう考えちゃうの?
なんて疑問がたくさんあって、それは自分を知りたいという欲求だったんだと思います。
そこから今ここに至るまで、私はずっと自分を知りたいを続けて来たわけですが、その先に人を知りたいという気持ちもわいて来たんですよね。
でも先日「別に自分をそこまで知りたいなんて思っている人っていないんじゃないですか」
という意見を聞いて、うわぁーそっかー
そういう考え方もあるかー
と久しぶりに自分の常識というか、当たり前だと思っていた価値観を震わされたというか、考えさせられることがあったのです。
そのかたがどういうつもりでそう言ったかはあくまでも想像するしか無いわけですが、私としては何だかモヤァ〜としましてね。
そうしてかなって考えたんですけれど、まぁ要は「私とは考え方が違うんだな」ってことなんですよね。
私は自分を知っているから、感情か行動をコントロールできるし、それができないと人を不愉快にすることが増えてしまうから仲良くできないよねって。やっぱりできればみんなと仲良くしたいじゃないですか。
でも今の状況や、周りにいる人で自分の意見や態度、立ち位置を変化させ続けるようなことをしていると、何だか無責任というか、もし状況が悪くなったら、周りのせい、人のせいにできてしまう気がして。それって格好悪いなって思うのです。
私が人を好きな理由は、人の中にある「可能性」なんだと思います。
良いにつけ悪いにつけ、人は変わる可能性を持っていて、それはいつでも発動可能。
可能性に火をつけられるのか、それをみるのもその結果どうなるのかをみるのも好きです。
その可能性も、周りの人がそれを知ることはあっても、それに火がつけられるのはあくまで自分でしかありません。それをするためには、自分を知らねければできないのでは無いかと思うのです。
だから私は可能性を引き出すことができるかも知れない人たちと一緒にいたいと思っているのかも知れません。
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本日は「マイルールに縛られるとつらいよね」というお話をしたいと思います。
私はよく人は主体的な生き物なので、「見たいように見て、聞きたいように聞いて、感じたいように感じる」というお話をさせていただきます。これが自分の常識、自分のマイルールとして考え方の中心になってしまうと、全てを自分の視点でしかものが見られない人になってしまいます。
自分の主観を全ての人に適応しようとしすると
私にとってこれは常識で、それ以外はみんなおかしい!なんてことになってしまいます。
これを続けていくと、世界などんどん狭くなっていってしまうような気がします。
多様性という言葉を最近よく聞くと思いますが、「みんなちがって みんな良い」ていうやつですね。これを「あなたはあなた、私は私」とお互いの違いをそういうものだよね、というだけにしてしまうのは、少し違うように私は思います。大切なのは、「あなたはそうなのね」と相手を認めて、尊重することです。
お互いに理解はできないこともあるかも知れないけれど、わかり合おうと努力することが必要なのではなのではないでしょうか。
相手が自分と違う考え方や意見だったとして、そんな時にわく感情は不安や悲しみや怒りに似た不愉快なものかも知れませんが、それはちゃんと感じた方か良いでしょう。
自分の感情はそうだとしても、それは自分のものとしていっとき棚上げして、相手の意見を聞いてみることと棲み分けたら良いと思うのです。
子どもの頃は自分中心でいいと思います。それが子どもらしさですし、成長の過程の中で自分の世界がつくられ、それを飛び出していくことが人としての成長ではないかと思うからです。
問題はこの自分の世界(マイルール)から出ようとしないオトナが結構いると言うことです。
もったいないですよね。
しかも自分の世界から出ないことを、自分らしさとか自分軸だと勘違いしている人もいます。
自分軸を持っている人は、どんな世界にいても自分でいられるということです。
自分の世界の安全地帯から、すごいでしょ、と威張り散らかすことではありません。
白黒思考というんでしょうか、0か100かなんてふたつにひとつの考え方はこ私たちが生きるこの世界には、ほとんどありません。どちらかといえば、中間の曖昧で矛盾だらけのことが多いものです。
はっきりした方がわかりやすくて楽なんでしょうが、残念なことにそうではないから生きにくいとみなさん感じるのでしょうね。
自分の常識や価値観をを相手に押し付けないというだけで、ずいぶん気持ちが楽になります。
マイルールで自分を縛り上げずに、自由な発想でなんでもありなのかもと捉えてみてはどうでしょうか。
本当に心地が良いことっていうのは気持ちいいっていうのとちょっと違うですよね。気持ちが良いっていうのは自分な気がするんですよ。心地が良いっていうのはこの世界を含めた私の接している部分も含めて、心地が良いな気持ちいいなっていうところになっていくのかなって思うのです。
自分一人が気持ちいいっていうことよりも、接している人たちも、この世界もみんな優しくて心地いい感じっていうのが、私は楽だなって感じるんですよね。
私たちは主観的な生き物なので、とにもかくにも私が何を発信するか何を考えるかっていうことが、物の考え方の中心になるのは間違いないんですけれども、その考え方の中にやっぱり他者がいるっていうところでいくと、相手はどう思って見て感じているのかっていうことも受け入れる大切さ、余裕みたいなものがあったらいいんじゃないでしょうか。
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本日のお話は「愚痴の聞き方」についてお話しします。
愚痴ってどうしても人を批判したり、悪口や建設的じゃないお話が多かったりして、悪い言葉いっぱい聞いてしまったりすると、気持ちが落ち込んだり疲れてしまったりしますよね。
しかし愚痴は心の中にある思いをアウトプットすることで、気持ちの整理にもにもつながることもあるように思います。言葉にしてみると、自分の本音や解決する方法を思いついたりすることもあります。
愚痴を話す人はたいていコントロールドラマを繰り広げている場合がほとんどです。
被害者ドラマが多いかも知れません。これに巻き込まれると、話を聞いているだけでエネルギーを奪われて疲れてしまいます。
ただここでコントロールドラマの舞台に上がるのではなく、相手がじつはこちらを信用して言いにくい話をしているとしたらどうでしょう?
愚痴は愚痴。
ただ吐き出したい時もあります。
それでも話す相手は選ばないと、その愚痴に含まれた悪意や悪口が広まってしまう恐れもあります。それを防ぐには、口が硬く、秘密を守ってくれる、信用できる人にいう必要がありますね。
もしかしたら、愚痴を聞きやすい人は、周りの人に信用されているからなのかも知れません。
そう思うと、少し余裕を持って
「仕方ない、聞いてあげようか」なんて思うことができたら、気持ちが少し楽になりませんか?
人の不平不満は聞いていると耳汚い言葉もあったりして、それを聞くだけで心が苦しくなる時もあります。できればそういう場に参加しないことが一番なのですが、そうもいかない時もありますね。
そんな時は、この人は私を信用して話してくれているのかも?と思ってみるのも、一つの手かも知れません。音声配信ブログ 毎日更新しています
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みなさんご機嫌いかがですか?
本日のお話は「大人になるとはどういうことか」というお話です。
私がいう「大人」とは成熟した人間性を持っているということ。は若いことがとにかくいいんだとはあまり思っていません。
エネルギーとかチャレンジや好奇心のパワーとか、若いからこそ持って然るべきものは当然ありますけれど、それよりも円熟したとか成熟したとかそういうものの方がどちらかというと好きだったりします。
これも私自身の個性というかテイストに関係しているとは思うのですが。
日本では成人年齢は20歳ということになっていますが、選挙権は18歳ですね。法的な成人はそう定義されているわけですが、実際のところその20歳になったからといって、大人扱いはされますが「オトナ」かというと心の部分ではまだまだ違うように思います。
私の甥っ子は高校を出て就職して働いていますが、母である妹にしてみるとまだまだ考え方や責任感が甘い!と言っておりました。
人の心の成長は何を体験し、それをちゃんと経験値として行かせているかどうかが鍵ではないでしょうか。
大人になるというのは、年齢だけでは測れないものです。
心の成長や社会的な責任を持つことも含まれます。そして自分自身の考え方や行動に責任を持ち、自立して生きていくことです。また、周りの人々や社会との関わり方や、人としてどんな価値観を持つのかということも問われるかも知れません。
自分を分析し時には客観的な視点で見ることができるようになることでもあるように思います。
そしてそれは刺激的な旅の始まりでもあり、ワクワクするような未来への扉でもあります。
先にお話したペルソナの話とも通じるのですが、社会生活を営む上で、私たちは自分自身のペルソナをちゃんと付け替えなければいけないと思います。一貫性のある自分でいることは、下着をつけずに真っ裸で歩いているようなもので、社会で生きていくためには必要不可欠なことです。そのため、お見せしてはならない場所やことなどを隠すために、自分の役割や立場を表すためにペルソナを付け替える必要があります。自分自身では、もちろんペルソナが自分自身であることは間違いありませんが、ここでの私の必要な役割や仮面みたいなものを演じるために、ちょっとした演技力が必要とされます。社会人として、自分の役割や立場を意識して、上手にペルソナを付け替えることが大切だと感じます。
何かを習得する際、一瞬で全てを理解することはできません。ただし、毎回少しずつ学んでいくことで、最終的にはそのスキルや知識を完全にマスターできます。
自己啓発や自己成長でも同じことが言えます。自分自身と向き合い、自分の弱点や課題を少しずつ克服していくことが大切です。
大人になることとは、時間をかけて自分の溜めてきた知恵を使ってさまざまなこととうまく折り合いをつけられるようになることです。
それが丸くなったなんて言われることにもつながるのかも知れません。
あなたは成熟していますか?知恵を使いこなせていますか?
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