本日のお話は「変わると決めた人にはなにがやってくるのか」というお話。
2020年に在処塾にきてくださってはや3年のEさんは、今年の2月に起きた家族の大きなトラブルを乗り越えて、ついに彼女の愛の本質と感謝に満ち足りた世界はすでにあったことに気づいてくれました。
人にはそれぞれに知るべきことも、なすべき事もあって、自分のそれをしっかりと受け取ることは人生を楽園にするのにとても重要です。
問題はそれをやろうとするかという意志と、やると決めるということ。
意志や思いがこの世界をそうたらしめ、決めることでそのために必要な状況が用意されます。
用意されると言いますが、無意識が自分が変わることで得られる世界になるべく物事をそうなるように選択してしまうだけなのでしょうけれど。
わたしはそうやって「決めた」ことで変化していく人をたくさん見守ってきました。
「決める」と必ずそれはやってくる。
どんなかたちでやってくるかわからないのは恐ろしく不安でもあるでしょうが、だからこそやり甲斐もあればチャレンジする気概も生まれます。
決めたら逃げないでください。
あなたの意志がそう望んだのですから、真っ向勝負です。やり抜いて下さい。
そうすれば足るを知る、満たされた世界に生きることができるでしょう。
簡単ではないからこそ、取り組みがいがあるものです。
自己成長の旅への一歩を踏み出してみてください。
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本日は「運勢が悪いと言われたら、落ち込むより注意をしよう」というお話。
今朝は朝から情報番組を何気なくみておりましたら、
「今日最も運勢が悪いのは、双子座」
という文言が聞こえてまいりました。
かくいう私は太陽星座双子座でございます。。。
まぁちょっと気になりますよね。
で、私の場合運勢が最悪と言われたなら
「よっし、どんな悪いことがあるのか探してみよう!」とちょっと面白がるようなことを考えます。
朝から最悪なんて言われたら、嫌な気持ちになるのが人の常かと思いますが、そこ思い変えたら世界は一変します。
私の思い変えは先ほどの「どんな悪いことがあるか探してやるぜ」と面白がる思考の変換するのです。嫌なことが本当に起こるのか、自分で検証しようと面白がってしまうんです。
私の元々の天邪鬼な性格もあるかもしれませんが、朝から最悪ですなんてことがに縛られてなるものか!と思ってしまうのです。
結局何も悪いことは起きませんでしたね。
これも私は面白がると思え変えたからだと思っています。私たちの世界は自分でつくるものですし、どう作られているかといえば私たちの思考・意識が現実を作り上げるのですからね。
ただ、星のバイオリズムがあることも信じていますので、星まわりが悪いということは流れが低迷していると捉えることもできるので、事故やアクシデントなどには注意が必要ではないかと思います。そこでいつもより周囲しながら生活しようとは思います。
結局人は主観で物事を見たり聞いたり感じたりしますから、自分がどんな心持ちでいるかは大きな変化をもたらすのではないでしょうか。
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本日の話題は「特別であることは特別じゃない」ということについてです。
私たちは自分自身がまわりと違う存在であることを自覚することは当たり前のことです。
ただそれを振り回すことは自分勝手ですし、結構周りからはイタイ人認定されてしまうことがあるかも知れません。
特別であることは実際には個性的であることとは違って、あなたがあなたらしいという「唯一無二の存在」というだけのこと。
誰もが特別なわけで、だからこそみんな特別であればそれは誰もが特別では無いことと同義ではないでしょうか。
特別だからといって他の人と大きく違うことであってり、大きなことを成し遂げるわけではないのかもしれないのです。違うということにこだわりすぎると、自分のやるべきことを見失うこともあります。
人それぞれが持つ個性、自分らしさを大切にし、自分自身のやるべきことに気付いて、物事を考えることが大切なのではないでしょうか。
最後は結局、自分の持ち前を知り、全てを持っていると足るを知る。
あなたの持つ人間性が、やるべきことをやり遂げるための力になることでしょう。
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みなさんご機嫌いかがですか?
本日はやっぱり私は「自分を知りたい」っていう人とつながりたいというお話です。
子どもの頃から
自分て何だろう?
何で生まれてきたの?
何しに生まれてきたの?
何でこう考えちゃうの?
なんて疑問がたくさんあって、それは自分を知りたいという欲求だったんだと思います。
そこから今ここに至るまで、私はずっと自分を知りたいを続けて来たわけですが、その先に人を知りたいという気持ちもわいて来たんですよね。
でも先日「別に自分をそこまで知りたいなんて思っている人っていないんじゃないですか」
という意見を聞いて、うわぁーそっかー
そういう考え方もあるかー
と久しぶりに自分の常識というか、当たり前だと思っていた価値観を震わされたというか、考えさせられることがあったのです。
そのかたがどういうつもりでそう言ったかはあくまでも想像するしか無いわけですが、私としては何だかモヤァ〜としましてね。
そうしてかなって考えたんですけれど、まぁ要は「私とは考え方が違うんだな」ってことなんですよね。
私は自分を知っているから、感情か行動をコントロールできるし、それができないと人を不愉快にすることが増えてしまうから仲良くできないよねって。やっぱりできればみんなと仲良くしたいじゃないですか。
でも今の状況や、周りにいる人で自分の意見や態度、立ち位置を変化させ続けるようなことをしていると、何だか無責任というか、もし状況が悪くなったら、周りのせい、人のせいにできてしまう気がして。それって格好悪いなって思うのです。
私が人を好きな理由は、人の中にある「可能性」なんだと思います。
良いにつけ悪いにつけ、人は変わる可能性を持っていて、それはいつでも発動可能。
可能性に火をつけられるのか、それをみるのもその結果どうなるのかをみるのも好きです。
その可能性も、周りの人がそれを知ることはあっても、それに火がつけられるのはあくまで自分でしかありません。それをするためには、自分を知らねければできないのでは無いかと思うのです。
だから私は可能性を引き出すことができるかも知れない人たちと一緒にいたいと思っているのかも知れません。
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本日は「マイルールに縛られるとつらいよね」というお話をしたいと思います。
私はよく人は主体的な生き物なので、「見たいように見て、聞きたいように聞いて、感じたいように感じる」というお話をさせていただきます。これが自分の常識、自分のマイルールとして考え方の中心になってしまうと、全てを自分の視点でしかものが見られない人になってしまいます。
自分の主観を全ての人に適応しようとしすると
私にとってこれは常識で、それ以外はみんなおかしい!なんてことになってしまいます。
これを続けていくと、世界などんどん狭くなっていってしまうような気がします。
多様性という言葉を最近よく聞くと思いますが、「みんなちがって みんな良い」ていうやつですね。これを「あなたはあなた、私は私」とお互いの違いをそういうものだよね、というだけにしてしまうのは、少し違うように私は思います。大切なのは、「あなたはそうなのね」と相手を認めて、尊重することです。
お互いに理解はできないこともあるかも知れないけれど、わかり合おうと努力することが必要なのではなのではないでしょうか。
相手が自分と違う考え方や意見だったとして、そんな時にわく感情は不安や悲しみや怒りに似た不愉快なものかも知れませんが、それはちゃんと感じた方か良いでしょう。
自分の感情はそうだとしても、それは自分のものとしていっとき棚上げして、相手の意見を聞いてみることと棲み分けたら良いと思うのです。
子どもの頃は自分中心でいいと思います。それが子どもらしさですし、成長の過程の中で自分の世界がつくられ、それを飛び出していくことが人としての成長ではないかと思うからです。
問題はこの自分の世界(マイルール)から出ようとしないオトナが結構いると言うことです。
もったいないですよね。
しかも自分の世界から出ないことを、自分らしさとか自分軸だと勘違いしている人もいます。
自分軸を持っている人は、どんな世界にいても自分でいられるということです。
自分の世界の安全地帯から、すごいでしょ、と威張り散らかすことではありません。
白黒思考というんでしょうか、0か100かなんてふたつにひとつの考え方はこ私たちが生きるこの世界には、ほとんどありません。どちらかといえば、中間の曖昧で矛盾だらけのことが多いものです。
はっきりした方がわかりやすくて楽なんでしょうが、残念なことにそうではないから生きにくいとみなさん感じるのでしょうね。
自分の常識や価値観をを相手に押し付けないというだけで、ずいぶん気持ちが楽になります。
マイルールで自分を縛り上げずに、自由な発想でなんでもありなのかもと捉えてみてはどうでしょうか。
本当に心地が良いことっていうのは気持ちいいっていうのとちょっと違うですよね。気持ちが良いっていうのは自分な気がするんですよ。心地が良いっていうのはこの世界を含めた私の接している部分も含めて、心地が良いな気持ちいいなっていうところになっていくのかなって思うのです。
自分一人が気持ちいいっていうことよりも、接している人たちも、この世界もみんな優しくて心地いい感じっていうのが、私は楽だなって感じるんですよね。
私たちは主観的な生き物なので、とにもかくにも私が何を発信するか何を考えるかっていうことが、物の考え方の中心になるのは間違いないんですけれども、その考え方の中にやっぱり他者がいるっていうところでいくと、相手はどう思って見て感じているのかっていうことも受け入れる大切さ、余裕みたいなものがあったらいいんじゃないでしょうか。
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本日のお話は「愚痴の聞き方」についてお話しします。
愚痴ってどうしても人を批判したり、悪口や建設的じゃないお話が多かったりして、悪い言葉いっぱい聞いてしまったりすると、気持ちが落ち込んだり疲れてしまったりしますよね。
しかし愚痴は心の中にある思いをアウトプットすることで、気持ちの整理にもにもつながることもあるように思います。言葉にしてみると、自分の本音や解決する方法を思いついたりすることもあります。
愚痴を話す人はたいていコントロールドラマを繰り広げている場合がほとんどです。
被害者ドラマが多いかも知れません。これに巻き込まれると、話を聞いているだけでエネルギーを奪われて疲れてしまいます。
ただここでコントロールドラマの舞台に上がるのではなく、相手がじつはこちらを信用して言いにくい話をしているとしたらどうでしょう?
愚痴は愚痴。
ただ吐き出したい時もあります。
それでも話す相手は選ばないと、その愚痴に含まれた悪意や悪口が広まってしまう恐れもあります。それを防ぐには、口が硬く、秘密を守ってくれる、信用できる人にいう必要がありますね。
もしかしたら、愚痴を聞きやすい人は、周りの人に信用されているからなのかも知れません。
そう思うと、少し余裕を持って
「仕方ない、聞いてあげようか」なんて思うことができたら、気持ちが少し楽になりませんか?
人の不平不満は聞いていると耳汚い言葉もあったりして、それを聞くだけで心が苦しくなる時もあります。できればそういう場に参加しないことが一番なのですが、そうもいかない時もありますね。
そんな時は、この人は私を信用して話してくれているのかも?と思ってみるのも、一つの手かも知れません。音声配信ブログ 毎日更新しています
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みなさんご機嫌いかがですか?
本日のお話は「大人になるとはどういうことか」というお話です。
私がいう「大人」とは成熟した人間性を持っているということ。は若いことがとにかくいいんだとはあまり思っていません。
エネルギーとかチャレンジや好奇心のパワーとか、若いからこそ持って然るべきものは当然ありますけれど、それよりも円熟したとか成熟したとかそういうものの方がどちらかというと好きだったりします。
これも私自身の個性というかテイストに関係しているとは思うのですが。
日本では成人年齢は20歳ということになっていますが、選挙権は18歳ですね。法的な成人はそう定義されているわけですが、実際のところその20歳になったからといって、大人扱いはされますが「オトナ」かというと心の部分ではまだまだ違うように思います。
私の甥っ子は高校を出て就職して働いていますが、母である妹にしてみるとまだまだ考え方や責任感が甘い!と言っておりました。
人の心の成長は何を体験し、それをちゃんと経験値として行かせているかどうかが鍵ではないでしょうか。
大人になるというのは、年齢だけでは測れないものです。
心の成長や社会的な責任を持つことも含まれます。そして自分自身の考え方や行動に責任を持ち、自立して生きていくことです。また、周りの人々や社会との関わり方や、人としてどんな価値観を持つのかということも問われるかも知れません。
自分を分析し時には客観的な視点で見ることができるようになることでもあるように思います。
そしてそれは刺激的な旅の始まりでもあり、ワクワクするような未来への扉でもあります。
先にお話したペルソナの話とも通じるのですが、社会生活を営む上で、私たちは自分自身のペルソナをちゃんと付け替えなければいけないと思います。一貫性のある自分でいることは、下着をつけずに真っ裸で歩いているようなもので、社会で生きていくためには必要不可欠なことです。そのため、お見せしてはならない場所やことなどを隠すために、自分の役割や立場を表すためにペルソナを付け替える必要があります。自分自身では、もちろんペルソナが自分自身であることは間違いありませんが、ここでの私の必要な役割や仮面みたいなものを演じるために、ちょっとした演技力が必要とされます。社会人として、自分の役割や立場を意識して、上手にペルソナを付け替えることが大切だと感じます。
何かを習得する際、一瞬で全てを理解することはできません。ただし、毎回少しずつ学んでいくことで、最終的にはそのスキルや知識を完全にマスターできます。
自己啓発や自己成長でも同じことが言えます。自分自身と向き合い、自分の弱点や課題を少しずつ克服していくことが大切です。
大人になることとは、時間をかけて自分の溜めてきた知恵を使ってさまざまなこととうまく折り合いをつけられるようになることです。
それが丸くなったなんて言われることにもつながるのかも知れません。
あなたは成熟していますか?知恵を使いこなせていますか?
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みなさんご機嫌いかがですか?
生きにくいこの世界で
自分を知りたい、自分を変えたいというコアな人に向けて
楽に生きる楽園思考を指南する、在処塾を主催しております。
本日のよろしくお願いいたします。
今日のエピソードは、サポートのタイミングについてお話ししようと思います。
私が主催する在処塾に来てくださる皆さんは、基本的に純粋で優しい方が多いのですが、もちろん社会の荒波に揉まれてその純粋さが少し歪になってしまっている状態だったりします。
そんなみなさんはその歪さから、自分らしさや考え方を見失ってしまって、「助けて!」と在処塾の門を叩いてくださるのですが、そんな時これはサポートでいいのか?ヘルプなのか?はみさだめる必要があります。
私はサポートかヘルプが必要かをどうかは、指導者が見定める資質を求められていると思います。
そして何か下のアドバイスをした後、その人ができるかどうかを見守ること。「待つ」というもの大切な資質だと思います。これ結構試されますよね。
ここではアドラー心理学でいう「課題の分離」という考え方が、とても有効だと思うのですが、この「課題の分離」も簡単に理解して実践するのはむずかしいことなので、慎重にならなければなりません。
それぞれが自分自身で成し遂げる必要があるものは自分でやるべきで、且つお互いが魂の尊厳をリスペクトし合って、自立していくことを大切にすべきだと考えます。
サポートもヘルプも、その人をよく観察して何が必要でそうでないかを見極める目は、経験値を貯めた直感が大きく作用するところではないでしょうか。
簡単にできることではありませんが、「これは!」と勘がささやいた時は無視しないで全力でアドバイス力そして介入力を発揮するべきでしょう。
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みなさんご機嫌いかがですか?
やっと念願の映画を見に行ってまいりました。毎月1日はファーストデイと言って、安く映画が見られるんですね。
「劇場版PSYCHO-PASS PROVIDENCE」がやっと見られました。
まだ公開している映画館が八王子では南大沢でしかやっていなくて、久しぶりに八王子を横断していってきました。
八王子って広いんですよ。私が住んでいるのは高尾山に近い山の方で八王子市街の方が近くて、昔から住んでいる人が多い地域なんですが、南大沢は比較的新しい移住してきた方々がお住まいの地域で、高層マンションとかアウトレット商業施設がある綺麗な街。
ちょっと我が家からは遠いんですよね。
最近体調が低調だったのもあって行くだけで疲労感が半端ない。
こういう体調が低調な時は、心も力が発揮できない状態のことが多いようです。
行く途中でも信号によく止められたり、道路工事で規制があったり、いったお店が準備中だったりね。
以前「根拠のない自信で思う通りのことを引き寄せる」お話をしたと思うのですが、これを実行できるのも、メンタルとフィジカル両方が整っていないとなかなかむずかしいものです。
心身が整っていない時には、注意力が散漫になったりして物事が上手くいかないことが起こりやすいのでしょう。そう言う時にあれこれ止まったり、止められたりするのかも知れません。
それ自体が注意喚起で、お知らせなんだと思うと、無理しないのが一番。
やっぱり一回、なんでだろうって、どうしたんだろうみたいな感じで振り返るとか止まるとかっていうのも、私、悪いことじゃないと思うんですよね。進むだけがいいわけじゃないと思うんですよ。人には絶対に進むべきタイミングみたいなのがあるはずなので、やっぱりスムーズにいかない時ってそうじゃないのかなって私なんかは思っちゃうんですよね。これね、これは都合のいい考え方なのか、それとも私にちょうどいいものを得ようとする時のしなやかな考え方なのかっていうところに至るわけなんですが、私はですね、しなやかでいたいので、しなやかな考え方だと思って受け取ろうと思います。
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みなさんご機嫌いかがですか?
本日はペルソナの付け替えについてのお話。
お仕事やビジネスの世界で言われるペルソナは、キャラクターっていう意味のことだと思うのですが、私がいうペルソナとは「役割」のことです。
ペルソナを自分の役割だと考えると、例えば私の場合「妻・母・娘・長女・姉・叔母」などです。
一般的にみなさんも二つ以上はあるでしょう?
仕事をしていれば社会と接する上で、よりペルソナは増えるでしょう。
よく言われるのは、裏表がないこと、そして一貫性があることをよしとする考え方です。そうでないと、良い人と見られないと思っている人は多いのではないでしょうか。しかし
人間関係でコミュニケーションをしている時苦しくなってしまうことがありますね。
もちろんコントロールドラマをしていたり、巻き込まれてしまってそうなることもありますが、時に状況にあっていないペルソナを被ってしまったことで、考え方にブレが生じることで苦しくなることもあるのではないでしょうか。
社会性を発揮して生き抜くためには、臨機応変であることが大切です。
そのためにはその時々にあわせて自分のペルソナを付け替えて対応することが上手くいくキモになります。
いつも同じ自分でいることは時には相手に気を使わせたり、対応を難しくさせたりしてしまいます。
それは大人としてはちょっと恥ずかしいことかも知れません。
自分の持つペルソナ「役割」を考えてみてはどうでしょう?
そして上手く付け替えて、コミュニケーションに役立ててください。
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