2025年の7月5日。
SNSや動画配信の世界では、ある「予言」が話題になっていました。
「この日に大地震が起きる」
「外出は控えた方がいい」
「直感を信じて動かないで」
そんな文言が、まるで警告のように流れてきて、ちょっとドキッとした方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私も、何人かから「どう思います?」と聞かれました。
私は地震が起きるとか起きないとか、そのこと自体よりも
「なぜあれだけ多くの人が、予言に注目したのか」
が気になりました。
未来が不確かだと、人はとても不安になります。
たとえば、いつ地震が来るか分からない、何が起きるか見通せない──そんな妙に落ち着かなくなった時
誰かが「〇月〇日に〇〇が起きます」と言い切ってくれると、
「怖いけど、備えられる」
「来るならその日に来ると分かってるほうが安心」
そのようにに思ってしまうんです。
これは心理学的に「不確実性の回避」と呼ばれる反応で、人間の自然な心の動きなのです。
不安に満ちた未来よりも、たとえ怖い未来でも、見通せる方がラクだと感じる。
そう考えると、「予言を信じる」のは人としての自然な反応なのかもしれません。
今回の予言のなかには、「関東で揺れが来るかも」とか、「震度5以上の可能性」みたいな曖昧な表現もありました。
こういう言葉は、当たったように感じやすいんです。
少しでも地震があれば「ほら当たった!」と思えますし、何も起きなくても「警戒してたから回避できたんだ」と納得できてしまう。
これは「バーナム効果」と呼ばれる心理現象で、誰にでも当てはまりそうな言葉を「私のことだ」と感じてしまうこと。
さらに、もともと信じたいと思っている人は、そういう情報だけを集めて、「やっぱり当たる」と思ってしまう。
これが「確証バイアス」と呼ばれる心理的な傾向です。
つまり、私たちの心には「信じたいように見る」仕組みが、そもそも備わっているんですね。
ここまで読むと、「やっぱり予言なんて信じるべきじゃない」と思われる方もいるかもしれません。
でも私は、ちょっと違う視点で見ています。
「信じたい」と思う気持ちは、とても人間らしいものだと思うんです。
それは「弱さ」に見えることもあるでしょうが、そもそも人はそんなに強いわけではありません。どんな時も安心したいし、快適で幸せな状態でいたいものですよね。なら、不安を回避するために、どんな形であれ自分本位に物事を捉えることがあるのも仕方がないことではないかと思います。
でも、もし「信じたい」が「信じ込まされる」に変わってしまったら——
一度、立ち止まってみることも大切かなと思うのです。
「信じたい」はあくまでも自分発信の気持ちですが、「信じ込まされた」ものを信じるのは他人軸になってはいないでしょうか?
他人軸で振り回されていると、それが間違っていた時や、自分の意にそぐわないものだと気付いた時、それは間違いなく他責になります。
自分じゃない、あいつのせいだ!ってやつですね。
そうなってしまうと、自分の間違いに気づくこともしにくくなりますし、自己保身のためにより攻撃的になってしまうことのありえます。
そうなったら内省からどんどん離れていってしまいますね。
予言でも、占いでも、スピリチュアルな言葉でも、信じたい理由があるはずです。それがぶれていないか?
自分の中にある「信じたい理由」を見つめることが、情報に振り回されないための小さなヒントになるように思います。
今回の“7月5日問題”は過ぎ去ろうとしていますが、
これからもきっと、「〇〇が起きるかも」という話題は定期的に出てくるでしょう。
そのとき、誰かの言葉に心が揺れたら、「私は、何のために信じたいと思ったのか?」を考えてみてください。
そして私たちはどんなことも
「自分の見たいようにみて聞きたいように聞き、感じたいように感じる」ことを忘れないでください。
人に振り回されるなんてこと、バカばかしいじゃありませんか。
記事を読んでくださって ありがとうございます