ここしばらく体調を崩しておりましたが、ようやく復調の兆しを感じております。眠りによって回復するのは自明の理。バイオリズも上下するものですからね。
今日はネット界隈では炎上気味だったことをコントロールドラマ視点で語ってみようと思います。
コントロールドラマって何?
人は誰しも、他者との関係の中で「何かしらのキャラ」を演じています。これは意図的というより、無意識のうちにやってしまっているもので、これを「コントロールドラマ」と呼びます。
コントロールドラマには、次の4タイプがあります:
脅迫者:相手を威圧して主導権を握ろうとする
被害者:同情や保護を引き出すために弱さを演出する
尋問者:質問攻めで相手を責め、優位に立とうとする
傍観者:距離をとって関心を集める、安全な場所から関係性を支配する
これらは、幼少期の家庭環境、特に親子の関係の中で身につけた、対人関係のクセのようなものです。
参院選の候補者擁立の動きの中で注目を集めた山尾志桜里さん(本名:菅野志桜里さん)。記者会見や言動を見ていて感じたのは、彼女の中に浮かび上がる“被害者”と“傍観者”のドラマです。
たとえば、国民民主党からの公認を取り消された件。彼女は「私は声をかけられたから立候補を決めたのに、それをひっくり返された」と主張していました。客観的な事実なので、それだけ聞いてあぁそうなのねと捉えるだけならばドラマに乗らずに済むのですが、これは「自分は傷つけられた側」というメッセージであり、同情や共感を誘う語り方。まさに“被害者”のドラマです。
一方で、「言えることはありません」「その点については話しません」といった、距離を取った物言いも多く見受けられました。この態度には“傍観者”のドラマも重なって見えます。出来事の当事者でありながら、どこか他人事のように見える態度です。元検察官だそうなので、さまざまな物事を割り切ったり客観的な見方をすることができる方なのかもしれません。今の自分と過去の自分、プライベートな自分と公的な自分。自分で自分に傍観者のドラマを仕掛けるなんて、なかなかのテクニシャンです。
山尾さんの語り口は、理路整然としていて、知的であることは間違いありません。しかし、「だから応援したい」と思わせる“熱”や“人間味”が、私にはいまひとつ伝わってきませんでした。
政治家には知性と人間味の両方が必要なのかも
人は感情の生き物です。
政治家には、論理の筋道だけでなく、「人として信用できる」と思わせるような、情や誠実さの表現が求められるのではないでしょうか。
過去にスキャンダルに見舞われた玉木代表が、謝罪し再出発を図った姿は、その意味で多くの人の心をつかみました。潔さや率直さに、日本人は弱い。だからこそ、誤魔化しや言い訳が透けて見えてしまうと、逆に大きく信頼を損なうのです。
人は、つい自分のキャパシティを越えたものに手を出したくなります。「できるかもしれない」「やれるはず」と。それは好奇心であり向上心の表れなので、否定されていいものではありません。
しかし、器(うつわ)以上のものを抱えれば、いずれ歪みが生まれ、ひび割れ、崩れてしまう。そうなる前に、「自分の器を知る」こと、「今の自分に合った役割を選ぶ」ことは、とても大切です。
それは政治家に限らず、私たち一人ひとりに言えることです。社会の中で、どんな関係性を築いていきたいのか。どんな関わり方で、自分らしさを保っていきたいのか。静かに、丁寧に、見つめ直したいところです。
コントロールドラマは、誰もが無意識に演じてしまう“クセ”。しかし、そのクセに気づいたとき、わたしたちは選択肢を持てるようになります。
・無意識にドラマを仕掛けて相手からエネルギーを奪うのか
・エネルギーを奪うためのドラマをせず不愉快さを撒き散らすことをやめるのか
選挙の季節。政策やスローガンだけでなく、「この人はどんなドラマを演じているのか?」という視点で候補者を見ると、少し違った風景が見えてくるかもしれません。
その人の“演技”の奥にある、本当の素顔を見極める、そんな視点もあっても良いかと思います。