先日、息子の新生活に向けた買い物に付き添ってきました。
長男はすでに一人暮らしを始めていて、今回引っ越すのは次男。都心の職場に通いやすい場所へと、ようやく住まいを決めたようです。
次男は感覚的にとても繊細な子で、人混みや騒音が苦手。毎日の満員電車も、彼にとってはかなりの負担だったのだろうと思います。
彼は昔から音に敏感で、ヘッドフォンを常に手放せません。通勤中も音を遮断することで自分を守っていたようです。そんな日々を経て、ついに「自分の暮らし」を整える決心をした彼に、親として少しホッとする思いがありました。
さて、その引っ越しに伴って、生活用品を揃えに家電量販店へ行くことに。
冷蔵庫と洗濯機を選ぶために足を運んだのですが、いやはや…。決まらないんです。
予算、性能、デザイン、納期……。何を優先するかで彼の頭の中は大渋滞。最終的には3時間近くかけてようやく決めることができました。
その姿を見ながら、私はできるだけ口を出さず、ただそばにいました。
つい「私だったらすぐ決められるのに」と思ってしまうのですが、それを言わないのが“子育て”なんですよね。
自分で考えて、選んで、決める。そして、選んだ結果を自分で引き受ける。
この一連の流れを経験することでしか、人は育たない。これは頭でわかっていても、親として実践するのはなかなか大変です。でも、やっぱり、親が代わりに決めてしまったらダメなんですよね。失敗しても、遠回りしても、自分で決めることが何よりの経験値になる。
その晩、帰り際に息子がぽつりと「長い時間つきあわせちゃってごめんね。ありがとう」と言いました。驚きました。彼は普段、そういった言葉をあまり口にするタイプではないのです。でも、その一言に、きっと彼なりの「気づき」と「思いやり」があったのだと感じました。
子育てって、最後まで“我慢”と“見守り”なんですね。
自分でやってしまえば簡単なことも、あえてやらせる。
それが親としての責任であり、覚悟なのだと、改めて実感しました。
そして、これはきっと「最後の子育て」なのかもしれないなと思いました。
もちろん、子どもがいくつになっても、親子の関係が終わることはありません。でも、「自分で決めて、自分で生きていく」ための練習期間としての子育ては、少しずつ終わりを迎えていくんですね。
私たちが次の世代にできることは、
「代わりにやること」ではなく、「そっと支えること」。
その人が自分の足で立てるように、必要なときに手を貸す“サポート”であるべきだと、私は思っています。
子育てをしている方、
お孫さんを見守る立場の方、
あるいは後輩を育てるお仕事をしている方
誰かを育てるということに関わるすべての方へ。
「助ける(ヘルプ)」と「支える(サポート)」は、似て非なるものです。
そして、「我慢して見守ること」こそが、愛情の深さなのかもしれません。
今日は、ちょっとした夫婦の日常の一コマをテーマにお話ししようと思います。
先日私の誕生日だったので、以前から欲しかったヨーグルトメーカーを夫におねだりして買ってもらいました。
1リットルの牛乳パックをそのまま差し込んで、ポチッとボタンを押せば、翌朝にはヨーグルトができている。なんて素敵!と、嬉々としてヨーグルト生活というか、発酵食品作りを楽しむようになりました。
甘酒を作ったり、塩麹に挑戦したり、いろいろ楽しくやっているわけですが、事件(?)はそんなある日に起きました。
ヨーグルト作りには牛乳と種菌となるヨーグルトが必要です。
買い物担当の主人にお願いしていたのですが、ある日、買ってきてくれた牛乳とヨーグルトで作ったものが、なんだかシャバシャバしてる。
あれ?おかしいな?
冷やせば固まるかな?と思っても、やっぱりシャバシャバ。
「あれー?なんか今回はちょっと違う感じだね」
と言いながら、半分食べたあたりで、ふと気づく。
牛乳パックをよく見ると
『乳飲料』
……牛乳じゃなかった!
裏の成分表示には「牛乳50%」の文字。
そりゃ固まらないわけだ、と納得。
私は子どもの頃から買い物や料理をしていたので、こういう表示を自然と確認する習慣があるんですけど、主人はそういう表示をあまり見慣れていない。
もしかしたら安かったから選んだのかもしれないし、パッケージも似てるから間違えるのも仕方ない。でも、このまま黙っていたら、また間違えてしまうかもしれません。
言い方ひとつで、未来が変わる
さて、ここで皆さんにお聞きしたい。
「なんでこれ牛乳じゃないのよ!ヨーグルト固まらなかったじゃない!」って、言いたくなりませんか?
でも、私は思いました。
これって、言い方を間違えたら
「俺が悪いってこと?」
「もう買い物行かない!」
なんて展開もありえますよね。
だから、こう言いました。
「ねぇパパ、前に買ってきてくれた牛乳で作ったヨーグルト、なんかちょっとシャバシャバしてたよね。でね、パック見たら『乳飲料』って書いてあったの。私も気づかなくて、半分食べちゃったんだけど、成分見たら牛乳50%ってなってたの。だから今回はちゃんと固まらなかったのかもーって。いい実験ができたわ!」
そしたら主人、「あぁ、そうかぁ」って納得してくれて、次に買ってきてくれたのはちゃんと“牛乳”でした。
率直さと、思いやりのバランス
思ったことを素直に言えるのは、とても大切なことです。
でも、「どう言うか」を少し工夫するだけで、お互い気持ちよく暮らせる。日々のちょっとしたことだからこそ、「率直さ」が「雑で乱暴」になってはもったいないですよね。
夫婦でも親子でも、家族って、近しいからこそ甘えも出るし、率直な言葉になりやすい。でも、その関係性を大切に育てるには、ちょっとのユーモアと、ちょっとの気遣いが必要なんだなって、あらためて感じた出来事でした。
ということで、今日の教訓は──
ヨーグルトを固めたかったら、乳飲料ではなく牛乳を!
そして、
長く一緒にいる人にこそ思いやりと率直さを持とう!
ということで、心地よい毎日を過ごすには、ちょっとした緊張感が必要かもねってお話でした。
記事を読んでくださって ありがとうございます
今回は、私たち夫婦の会話をめぐるちょっとした日常のズレ──その中にある「感覚タイプの違い」についてお話してみたいと思います。
優位感覚の違いがすれ違いの原因に?
人は誰しも五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)を持って生活していますが、その中でもよく使う傾向のある感覚を「利き感覚」「優位感覚」といいます。NLP(神経言語プログラミング)では、主に「視覚タイプ」「聴覚タイプ」「体感覚(感覚)タイプ」の3つに分類されます。
私は典型的な「視覚タイプ」。物事を絵や映像で捉えることが得意で、言葉にも正確さや明確さを求めがちです。反対に、私の夫は「体感覚タイプ」。感覚や雰囲気、空気感を重視するため、言葉が曖昧だったり、指示語(あれ、それ、ここなど)がやたら多かったりします。
この優位感覚の違いが、なかなかに面白い(というか、若い頃はけっこうイライラしましたが)すれ違いを生むのです。
あれってどれ? それって何? 夫の「感覚語」に翻弄される日々
たとえば休日のドライブ中。「お昼どうする?」と私が聞くと、夫は「あそこ行こうよ、ほら前に話した新しい店」などと言います。「あそこってどこ?」と聞くと、「ほら、あの道路沿いの…」と続く。
店名も場所も具体的に出てこない夫の言葉に、私は毎度モヤモヤ。記憶の中から“新しくできたかもしれないお店”を総動員して、「あのカフェ?」「あの洋食屋さん?」と当てにいく、まるで連想ゲーム。
視覚タイプの私は「具体的な情報」がないとイメージできません。でも夫は、「体感」で捉えているから、本人の中でははっきり「そこ」が存在しているのです。悪気はない。でも伝わらない。このズレが、日常のあちこちにあります。
コミュニケーションは、慣れとあきらめと、少しの敬意
洗濯洗剤の話でもそうでした。私が「いつもの粉石鹸、もうなくなっちゃったから買いに行きたい」と言うと、「ほら、あれだよ、前買ってきたとこで売ってたやつだよ」と夫。
だから、それがどこなんだってば……とツッコミたくなる気持ちを、ぐっと飲み込んで「もしかしてカインズ?」「ああ、それだ!」──このやり取りも、もはや夫婦の定番です。
以前はイライラもしました。でも今は「この人は、この感覚で世界を捉えている」と思えるようになりました。なれもあるかもしれませんが、そのままを受け止めることが私自身のため、楽な関係をつくっているように思います。
これは諦めではなく、尊重。自分が変わる方が早い、と気づいたからです。年を重ねるごとに、イライラするエネルギーも惜しくなってきますしね。
梅の実と暮らしの感覚、そして成熟ということ
そんな日々の中で、我が家の梅の木が今年は豊作。夫がせっせと梅を収穫してくれたおかげで、私は毎日せっせと瓶詰め作業。梅シロップに蜂蜜漬け、らっきょう酢を使ったやさしい梅漬け──保存食づくりに精を出しています。
夫の「取りすぎ」には思うところもありますが、それもまた暮らしの一部。完全に“社会的肩書”を脱ぎ捨てた彼が、感覚のままに動き、関わってくれていることに、私はある種の安心感を覚えるのです。
違う感覚を持つ相手と、どう付き合っていくか。
それは、私たちが日常で何度も繰り返していく「小さな理解」の積み重ね。そして、自分の枠の外に、そっと手を伸ばすことでもあります。
感覚の違いで起きるすれ違いを、ユーモラスに、そして誠実に捉えることができたとき、私たちはまた一歩、成熟に近づけるのかもしれません。
今日も、ちがいを面白がる一日になりますように。