在処塾生徒さんからの質問と
それに関する現実志向のスピリチュアリスト 星野梅雨子からの回答です。

ボランティアはいいの? 悪いの?

私はボランティアというか、結果ボランティアになるようなことをちょいちょいやっています。

正直いいのか悪いのか考えたことはなかったのですが、私自身はそこで出会う人や価値観がとても勉強になるのと、それをすることによって皆が喜んでくれるし、笑顔が生まれて自分が満たされるという究極の自己満だと意識しています。

これってやはり承認欲求の塊なんでしょうか?

そして陰なんでしょうか?

ちなみにその一つとして、フィリピンのストリートチルドレンの子たちの継続的支援をしています。
金銭的支援や会いに行ったりしています。

現地で働く夫はこの活動をあんまりよく思っていません。

この子たちは普段は盗みを働いて生きていて、日本人のNPO団体が中途半端にこういう自己満支援をしても根本が解決しないから仕方ないというようなことを言っていました。

私はそれでも救える命があるならいいんじゃないかと思っています。

自己満足のためならボランティアはしない方がよい

ボランティアは、考え方としてはかなり難しい問題です。

基本は自分の自己満足のためならば、しないことです。

なぜならば、自己満足は自分の自尊心を満足させるための感情であることが多いからです。

「自利」は自己受容ができてこそ成るものですが、自己受容とはどんな自分も認めるということですね。
そこには比較対象するものはないのです。自分しかないのですから。

しかし自己満足には「これだけやった」や「わたしは彼らよりも恵まれているから」、という比較が存在します。
それは、自分の心の傲慢さから発生するもので、それこそ自分勝手な思考、つまりは他人軸な思考となる種となることがあります。

それは危険なことですね。

ボランティアという行動の中に「喜捨」という考え方を取り入れると…

しかし、ボランティアという行動の中に、「喜捨」という考え方を取り入れると、少し変わってきます。

“喜捨”とは、「わたしたちは多くを持ちすぎている。だから手放す」ということで、魂をもっとシンプルにし、仏の心に近づくために、ものやお金を仏さまに差し出すことです。

それで徳を積むという考え方のことなのですが、これはあくまで自分の修行のためですね。
人のためではないのです。自分のため。

これは自分軸といえますね。

私たちは「利他」を得るために学ぶ

わたしたちは、最終的には「利他」を得るために学ぶわけですが、”利他”はあくまでも「私もこうなって幸せだから、あなたにもそうなってほしい」との思いではありますが、その思いは相手の課題を奪うことがあってはならないのです。

そこを考えると、ご主人がおっしゃる意味もわかってきませんか?

ストリートの子供達はしかたがないにせよ、悪のことをしてしまっている。
それは、彼らがあがなうべき課題なのです。

それが命であってもです。

それを助けるということは、お金を出すだけでは中途半端です。
それを偽善というのです。

私たちは、決して傲慢になってはいけません。
課題を奪うことはもっともしてはならないことです。
彼らの望みなのですから。

わたしは、もともと愛情が強い人間なのでどうしても情けをかけがちです。

それが魂の癖なわけですが、情けをかけすぎることは、相手を依存させ、自立を阻害することがあると知ってからは、それをしないようにと自制をかけまくっています。

毎日苦しいですが、それが修行と心得ています。

 

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